考察

ACのCM「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」で有名な金子みすゞ の詩「つばな」 を考察してみた

2015年5月28日

つばな イメージ

このブログでは普段は自主映画日記やラーメンレビューを書いていますが、

ここで突然、詩のレポートを記事にします。

たまにはそういうのもいいでしょう。それに、ブログでレポートというのもオリジナリティがあってよいではないか。

皆さん日常で「詩」について考える人も少ないと思います。
そこで、金子みすゞ の「つばな」 を通して、ちょっと面白く、わかりやすく詩の魅力や根源に迫ってみました。


金子みすゞ「つばな」の考察

まずは本文を引用します。

詩本文 引用

 つばな

つゥばな、つばな、
白い、白いつばな。

夕日の土手で、
つばなを抜けば、
ぬいちやいやいや、
かぶりをふるよ。

つゥばな、つばな、
白い、白いつばな。

日ぐれの風に、
飛ばそよ、飛ばそ、
日ぐれの空の、
白い雲になァれ。

こちらが詩です。これを色々と考察していきます。

 

ACのCMで知る、詩の力 詩の根源~繰り返しの持つ力~

雪の中の木

金子みすゞは明治以降の詩を語る上で外せない存在である。以前ACのCMで彼女の詩が使われたことを覚えておいでの方も多いのではないか。

「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」

のフレーズは非常に印象深い。

 

意味深なフレーズにどこか優しさを感じる語り口。CMでは流れ過ぎて洗脳のようになりかけていたが、魅力的な詩である。なんとなく心に残る。

そこで、「こだまでしょうか、いいえ、誰でも」以外の詩はどうなのだろうか? と思立ち、「つばな」という詩について考えてみたくなったのである。

詩に大事な要素とは?

詩というものは人の脳や心の奥深くにある、普通なら言語化できないようなものを言葉で表わしている、というものだと私は思っている。詩にも色々な種類はあるだろうが、根本にはそういったものが流れているのではないかと思う。

共感覚というものがあるが、「言葉では表せないようなものを言葉で表せる感覚」という意味で、共感覚も非常に重要なものとなっているだろうと思う。

更に、人の心の奥にもやもやとある(場合によってはもっと強烈に確かに存在しているものかも知れないが)感覚は、全ての人に共通するものなのではないかとも私は思う。人間の深層心理的な何かがそこにはあり、それを詩として具現化しているのではないかと思う。

そういったものである詩に感動する時、共感する時、「なんとなく」という感覚が非常に大事なものであると私は考える。それゆえ、私が「つばな」を選んだ理由は「なんとなく」だが、決して投げやりに適当に選んだわけではない。むしろ敢えて「なんとなく」、という自分の意識ではなかなか変え難い感覚に頼ってこの詩を選んだのだと言えよう。

繰り返し

繰り返しトンネル

話は戻るが、「心の奥に存在する、普通なら言語化できないようなある感覚・感じ・想い」を表わすとき、表現として「繰り返し」というのが重要なファクターになると私は考える。逆に言えば、繰返しを行うと、どんな言葉にもなんとなく意味が生まれる。

本来意味を持たないような「ふぎょっちゃぷる」などという文字の羅列でも

「ふぎょっちゃぷる、ふぎょっちゃぷる、白い顔して出ておいで」

のように書くと、なんとなく意味を感じるだろう(白い顔して云々はなんとなく詩っぽいものを書いただけで特に意味はない)。繰り返すことで、繰り返された言葉はそれがひとかたまりとして認識されるからである。

そして、繰り返すことで何か意味深になる。それは歌のように響き、時に怖さ、優しさを生み出す。

 

「つばな」でも使われる”繰り返し”

「つばな」でも繰り返しは使われている。

「つゥばな、つばな」「白い、白いつばな」「飛ばそよ、飛ばそ」

などだ。

繰り返しによってリズムが生まれ、また、反復することでつばなに対する愛情的なものが滲み出ている。更に、一連と三連は同じく「つゥばな、つばな、白い、白いつばな」となっていて、ここにも繰り返しが見られる。単語レベルではなく、更に拡張された繰り返しである。

これに加えて、「つゥばなつばな」「飛ばそよ飛ばそ」などのように繰返しを少し変えて語り口調にすることで、何かそこにその人の深い想いを感じ取ることが出来る。「夕陽の土手で、白いつばなを風に乗せて飛ばし、雲のようにする」というその美しく懐かしさを感じる情景を、繰り返しなどを用いて描くことで非常に優しい詩となっているように思う。

思い浮かぶ情景

だが、この詩は共感覚であるとか、「心の奥底に潜む人間の表わしがたい根源的感情を語っている」という類のものとはまた違ったもののようにも感じられる。ここまで「詩とは言葉に表せないものを共感覚的に言葉で表わして云々」などと言っといてなんだが、この詩はどちらかというと先ほども述べたように美しい情景を描いた詩、という側面が多分に強いように思える。

しかし、こう考えることはできやしないか。人の心の奥に眠っている共通して持っている「懐かしい風景」というぼんやりしたイメージを言葉にして詩に表わした、と。

つまり…

結局何が言いたいのかというと、「情景描写的な側面の強いように見える詩であっても、やはり根源に流れるものは同じだ」、ということである。繰り返しは曖昧なものを人に訴えるときに強い力を持つのである。

「つばな」でも言葉に表せない懐かしさ、郷愁を繰り返しがうまく引き出している。例えばこの詩から繰り返しや語り口調を除いて、簡潔にまとめてみよう。そうすればわかりやすいことだろう。

夕陽の土手で、抜きにくい白いつばなを風に乗せて飛ばす。白い雲になれと思う。

……なんともそっけないものだろうか。「白い雲になれ」の部分があるからまだ多少情緒があるが、このままでは郷愁や美しさは余り人々の心に伝わらないし、響かないだろう。逆に言うと、これに繰り返しを入れ、語り口調にすることで途端に素晴らしい詩になるのである。みすゞがこの詩をそんな機械的な作り方で描いたとは思えないが、そう考えると繰り返しの効果は偉大である。

夕焼け

オレンジ色に染まる夕陽の土手のてっぺんで、雲のように白いつばなに一人囲まれている。そこで少女が(少年かも知れないが、みすゞ自身を投影しているようにも感じられるので少女とした)つばなを「白い雲になァれ」と言って飛ばす様や、抜こうとするとかぶりをふるつばなを「ぬいちゃいやいや」と表現する様は、とても可愛らしく、そして非常に美しく懐かしく、純粋な世界観を持って頭に浮かんでくる。

これらはやはり、郷愁のイメージを詩として描きだす際に「繰り返し」「語り口調」が使われたおかげであろう(というか、自然とそういったものが使われたのだとは思うが)。それに「ぬいちゃいやいや」という擬人法や、「白い雲になァれ」などのエピソード的なものが加わり、詩として完成したのである。

 

まとめ

私はこの「つばな」という詩を、美しくも郷愁をはらんだ情景を、一人の少女(少年)を軸として純粋な世界観として描いたものだと思った。小難しいことを言っているが、透明感あるノスタルジックな感じが心に響く詩だ、ということである。

そして、私はこの詩を通じて詩というものの根源について少し触れられたように思う。

このことを感謝しつつ、レポートブログを締め括らせていただく。


 

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