不毛な記事

街の中に周囲がアルプスであった 作品価値

2015年8月24日

芸術 筆

 

現代アートというものがある。

#144 現代アート (海外、国内) まとめ

面白かったり、価値を疑うようなものだったり、人によって色々感じるだろう。感銘を受けたり、意味深だったり、理解不能だったり色々である。

そして、こういったものは素晴らしい感動を受ける場合もあるが、混交玉石だとも思われている節はあるだろう。

 

さて、私は私で意味深、もしくは理解不能なことを書いてみようと思い、この記事を立ち上げた。意味を分解し、組み立てて無意味化し、全体が抽象的意味を持つのである。

どうだろうか、すでに意味深である。

では。


「埃ギフトラッピング展」に展示された作品

昔話

街の中に周囲がアルプスであった。

おどけた街はこう語る。

「おい、周囲は外側にあるものだ」

重々承知していた周囲はこう返す。

「山頂も麓も同じか? 位置は変わるものだ」

街はこう返す。

「位置は変わっても周囲の位置が変わっちゃあ、困るだろう」

周囲は辺りを見回した。

「確かにそうだ。俺の周囲は街で、それはこれからも変わらなそうだ」

周囲は続ける。

「しかし、街とはなんだ?」

 

夜更けが来た。
人々は皆家に帰り、明かりを消し、眠りに就いた。

そのとき、街も眠っていた。

 

解説①(評論家:立市 飾太郎)

街の中に周囲がアルプスであった。つまりこの一文からはこのようなことが読み取れる。
「街の中には周囲が存在していたのだ。街に内在される「周囲」。それが確実に存在していた。事実、周囲にはアルプスがあり、それを求めたシナプスが実際に周囲だったのだ。」と。

人の営みがゆるい輪郭を持ち、街となるその一方で、中間には周囲が築かれる。

しかし、それは氷山の一角である。

街のセリフからもそれは明らかだ。例えるならば、おどけた様子は青色である。
つまり、青みを帯びたこの周囲は、昨日は位置だった。周囲の位置を把握するのが人々の営みそのもの。細胞の集合の集合が内在する位置関係は、余分なまでに不足していたはずだった。

 

吹き荒れる位置が周囲を乱す。その外観はTポイント同様に消費される概念でしかない。
街が内在する周囲が築く高山の雲上、そこに位置する人々は街そのもの。

青い位置、高い周囲、消費される概観、人の営みは集合し街となり、それらを形作る。
我々は街の細胞であるのだ。

そういったメッセージがあると解釈が可能である。

 

解説②(ブロガー:凡暮 暇夫)

不思議な雰囲気の世界観で、語り口も面白い。はっきりとは言わず何かを語るその作風が非常に優れている。
解釈の余地があり、作品の幅の広さが窺い知れる。

深いメッセージを読み取りきるのは難しいが、感情に直接訴える、終わりの綺麗さがどこか「すっとした気持ち」を与えてくれる。

 

解説③(大学生:世界村 終末介 )

特に語りたいことがないのを絵本風の世界観でごまかしているだけの作品だ。

どこかで見たことあるような文体だし、矛盾した言葉を並べて雰囲気を作っているだけなのは間違いない。

関連性がありそうでない、意味が通りそうで通らない文章を書くことで、解釈の余地がある深い内容に見せかけているだけの偽者の詩(ポエム)である。

最後は、「周囲は実態があるようでないけど、街だってそうだ」的な、なにかうまくまとめた風にも見えるが、だからなんだという印象はぬぐえない。以上を総合して、評価は星一つ。