終始鋭い言い回し『モッキンポット師の後始末』レビュー。カトリック版ずっこけ三人組!? - フリーBGM&自主映画ブログ|"もみじば"のMOMIZizm

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終始鋭い言い回し『モッキンポット師の後始末』レビュー。カトリック版ずっこけ三人組!?

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木琴ではない。モッキンポットだ。

私はこのことに関して、口を酸っぱくして言いたい。木琴ではなく、モッキンポットである、と。

…というわけで、早速だが、『モッキンポット師の後始末』という本のレビューをしたいと思う。これは井上ひさしの書いた小説である。当時は連載ものだったようだが、現在はすべてがまとめられ、単行本化されているが、私が読んだのはそちらである。しつこいようだが、木琴の話については一切触れていないので、木琴について知りたい方は下記を参照されたい。

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『モッキンポット師の後始末』レビュー

ここでは、『モッキンポット師の後始末』を読んで感じたことや、面白かった点を書いていく。書評のような感じである。木琴は関係ないし、「後始末」というワードに釣られてモッキンポットという断捨離がお得意な先生が後片付けについて教えてくれる記事だと思っている方がいれば、それもまた勘違いである。

漫画などでなじみやすい展開

まず、どんな本か軽く説明しよう。簡単に言えば、貧乏な悪ガキ(と言っても大学生だが)3人衆が悪だくみをしまくり、最初はうまくいくが次第にエスカレートしていき、最後は毎回必ず失敗する…が、そのフォロー、つまり後始末をモッキンポット師がしてくれる……が、それにも懲りずまた貧乏な悪ガキ(と言っても大学生だが)3人衆が悪だくみをしまくり、最初はうまくいくが次第にエスカレートしていく物語である。

食うために突飛なアイディアをひねり出しては珍バイトを始めるが、必ず一騒動起すカトリック学生寮の”不良”学生三人組。
~中略~
ードジで間抜けな人間に愛着する著者が、お人よし神父と悪ヂエ学生の行状を警戒に描く笑いとユーモアあふれる快作。

単行本:背表紙部分のあらすじ

これだけを言うとよくある物語の類型であり、『こち亀』のようなものなのだが、そこは小説である。素晴らしい文章力が物語をグイグイと牽引していく。

秀逸な言い回し

やはり小説というだけありキラリと光る文章・表現・叙述がそこかしこに散りばめられている。起きていることは滑稽で取るに足らないできごとだったりもするのだが、その優れた文章により、なんとなく人間の深層に触れたような気すらしてくるような物語になっている。(『こち亀』もかなりキラリと光っているが、漫画と小説なので光り方が違っていて、やはり言い回しが秀逸である。)

キラリと光るだとか言ってみたが、実際には冒頭から光りまくり、最後までずっとそこら中光っているので、面白い文章がギラギラ光って道を作っているレベルである。そしてその大半はくだらない内容であり、誰かの秀逸な悪口であり、人間の性をどうしようもなく捉えたことであり、愛すべきクズの発想であり、屁理屈であり、バカバカしいことの誇大表現であるのだから面白い。せっかくなので、そのいくつかを紹介しよう。

(主人公が「フランス人の舌の勝利」の祝いパーティーでさんざん酔っぱらった後で)
ぼくも、ああ、もうよすとも、だいたいこれ以上はもう一滴も口を通らないと答え、そのとき丁度折よく下からぐうんとせり上がってきた床の上に、これ幸いと倒れこんだ。たいそう痛かった。痛いなあと考えているうちになにもかもわからなくなった。

(聖パウロ学生寮に聖書を売りに来た人に対して)
「…つまり、あんたは、魚屋へ『晩のおかずに蛸の刺身なぞはいかがでしょう』なんてことを言って御用聞きにやってきた間抜けな魚屋ってところです。泥棒の家に泥棒に入ったぐずな泥棒ですね。交番へ『おまわりさーん!』と助けを求めに飛び込んできた頓馬な警官てところです」
(このあと主人公たちは、聖書を売りさばいて貧乏生活をしのごうと悪だくみし、そしてすぐ実行する)

そして、これらのバカバカしいことをさせるならどんな奴がいいか? そこもおさえてある。(というか、発想の始まりがここかも知れない)

カトリック教徒が主人公

教会画像だよ

『こち亀』でも警察官がめちゃくちゃをやるから面白いのだ。『こち亀』の両津がお笑い芸人だったらむしろ漫画はつまらないのではないだろうか。
そういうわけで、『モッキンポット師の後始末』でバカをやりまくるのはカトリック教徒なのである。(上の引用文である程度ネタバレはしているが)

しかも、キリスト系の単語や知識がそこかしこに結構詳しく出てくるからすごい。とくにその辺の学がない私からすれば、間違った情報があっても気付かないが、とにかくキリスト教に関する知識が至る所に使われており、なのにそのほぼ全てが滑稽な状況の背中を押すために使われているからすごい! まあまあ過激なことも書いているように思うのだが、終始突っ走るようにカトリック教徒の三人組がアホをやらかし続けるから、勢いでなんだか「まあ平気かな?」と思ってしまう。ちなみに、愛すべきアホ三人組のしりぬぐいを必ずするモッキンポット師もカトリックであり、そしてモッキンポット師もアホである。というか、登場人物はほぼ例外なくアホである。

そして、それらの登場人物を通して、宗教ネタを身も蓋もない視点で面白く取り扱うから笑ってしまう。

「……ほんとうに、神も仏もありません」
と愚痴をこぼしたら、
「仏はんはどうだが知らんけど、神はんは居てはりまっせ」と叱られた。

(不良学生の日野が、私の左の掌にマリア様の御姿が浮かんでいるのが見えないのですか? と神父と信者を困らせているとき)
すると、その時、戸口で声がした。
「日野君! あんたにはほんまにマリア様が見えるいうんでっか!?」
~中略~
「もしも、ほんまに見えるんやったら、あんた、精神病院へ行きなはれ。わてが手続き取ってあげますさかいな」

こんな感じのきわどいものが軽いテイストでそこら中に埋まっているのである。宗教の本質をついているような場面もちょいちょいあるのだが、まったく説教臭いシーンはない。

強烈なキャラ、モッキンポット師

たこ焼きモッキンポット

不良貧乏学生3人の後始末をするモッキンポット師だが、そのキャラがまた強烈である。主人公達は日本人だが、モッキンポット師はフランス人である。フランス人というとどんなイメージだろうか? なんとなく詩的だったり、スマートだったり、芸術に理解があったり、物腰落ち着いたようなイメージがありそうではないだろうか? ではモッキンポット師はどうか。冒頭の描写を引用しよう。

モッキンポット師は甚だ風采の上がらない、目付に険のある、天狗鼻のフランス人で、ひどく汚らしい人だった。髪の毛は前人未到のアフリカのジャングルよろしくもじゃもじゃ生え茂り、その一本一本が上に横に斜めに東に西にと勝手気儘な方向に延び、その上複雑怪奇に絡み合いもつれ合い、本当にライオンの一頭や二頭は…

この時点で「モッキンポットはやべえ」ということが伝わるだろう。

そして、上の引用文で少しは予想が付いているかもしれないが、モッキンポット師には一つの大きな特徴がある。さて、モッキンポット師の最初のセリフを引用しよう。

「どや、あんたも紹介状を読みまっか」

そう、なんとモッキンポット師は大阪弁なのであった…!(最初に習った日本語が大阪弁だったためらしい。)

更に、モッキンポット師もかなりケチ臭いのがまた面白い。主人公達のしりぬぐいの時には結構大金を出してくれるのだが、「いくらでも出しまっせ!」と言った後にすぐに「まかりまへんか?」と言うなど、色々なところにもったいないケチが出てくるのだ。主人公たちが貧乏でケチでバカなので、カトリック信者という設定でも親しみを感じるのである。むしろそのギャップに引き込まれて読み進めてしまう。

意外と友情ものだったりもする

このような特殊なカトリック信者たちが物語を展開していくのだが、主人公の不良学生三人組はかなり仲が良く、息があっている。小松、土田、日野の三人組である。みなケチで、貧乏で、悪知恵しか働かないドジバカである。

募金青年がいればそこから絶妙な距離に立って、仲間のふりをして関係ないのに募金をもらうことを思いつき、モッキンポット師の部屋においしそうなワインがあれば三人で言葉巧みに師を挑発してワイン飲み合戦に持ち込んでしまい、それぞれ故郷に帰る最後の別れという日には送別会と称して三人でお互いにおごりまくり合い、モッキンポット師が最後に渡してくれた1万円を一晩で使い切ってしまって帰れなくなる。そんな仲の良さは、小説も終盤になってくると、読者としても「この三人は離れてほしくない!」と思うようになる。

友情くさい描写はくどくどとはないのだが、意外と熱い友情を感じられる物語にもなっている。一方、走れメロスは謎な友情を描いていたなあ、などとも思い返した。

モッキンポット師との絆も!

三人の友情だけではなく、モッキンポット師とのそれぞれの妙な絆も徐々に感じられてくる。モッキンポット師は物語がひと段落すると姿を消した的な雰囲気になることも何度かあるのだが、そのときは切なさが漂う。そして、モッキンポット師が姿を消すシーンの一つにこういうものがあった。

神父はそれから急ぎ足で坂を駈け下がった。その後を追って駆け出したぼくらの前に遮断機が下り、プラットホームに停車していた電車がぼくらの前を通り過ぎて行った。再び遮断機が上がったとき、神父の姿はもうどこにもなかった。

実は私は以前、踏切での別れのシーンをパロディした自主制作CMを作ったことがあるのだが、まさにそんな感じのシーンで驚いた。よかったら見てもらえると嬉しい。

 

求められるのはヒーローの物語ではない、どうにもならないドジの物語だ

「求められるのはヒーローの物語ではない、どうにもならないドジの物語だ」
あとがきで、井上ひさしはそのようなことを書いている。

日本人は絶望に向かう急行列車だというのに、そんな中で家を買い、子供を産む! これは英雄的な楽天家ヒーロー以外のなにものでもない。と書いている。皮肉と称賛両方が混じっていそうなのは、カトリックに対しての描写と変わらず安定している。(もちろんこの小説自体が古い(あとがきは昭和47年)のでそのまま当てはまることではないが。)

とにかく、そんな英雄である日本人たちが読むのは英雄の物語ではない、ドジ、イモ、サバ、三流、間抜け、莫迦ものの物語であると言っている。続けて、「ヒーローというのは、皆が披露しきったころに現れるのである。そして日本に次にヒーローが現れるとすれば、それは独裁者という形でだろう」というようなことを書いている。それに続き、だからこそ「私はドジで間抜けな主人公を次から次へとつくり出して行かなくてはならない。それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわれげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作者冥利につきる。」と書き、あとがきを締めくくっている。また、「ヒローとヒーローをかけているわけではない」、と最後まで三流ネタを入れ込んでいたことも付け加えておく。

20150714001838005s↑風采の上がらないヒーローが主人公の自主映画『抜本-BAPPON-』のワンシーン

このようなあとがきを読めばわかるが、この物語はドジ、三流、イモへの愛があふれているのである。『ドラえもん』ののび太や『こち亀』の両津を始め、主人公が調子に乗って必ず失敗する物語というのはよくあるのだが、『モッキンポット師の後始末』は、秀逸な文章、そして一貫した発想のバカさ、そしてカトリックネタがそれに絡むことによっていかにも大層なことのようにアホなことをやる主人公たちの面白さがより際立ち、非常に味わい深いものになっている。読んだあとも十分に何度も思い返す深みを持っている。「みんな人間なんだよ」というメッセージ性すら感じる。

このような深い滑稽さを持った物語が『モッキンポット師の後始末』である。面白いだけでなく、しっかりと深みもある、そして「ドジな三流の物語を描き続けなくてはならない」という宿命も感じられるかっこいいアホ話が読みたければ、ぜひこの本を手に取ってほしい。