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無料小説 長編2『笑い島』19【三文】

2016年10月19日

限りある時間の中で時間を捻出するからこそ人生って楽しいのでしょうか。永遠を約束された魂を手に入れ限りない時間の中で楽しむということは楽しいといえないでしょうか。そうなってくれば、時間の浪費こそが至極の贅沢であり、密度の濃い時間に刳り貫かれた時間の方がより豪華な浪費となるのでしょうか。

どうも、気づいたら輪ゴムで3時間遊んでいたことの多かった三文享楽です。

あ、久々にゴムみたいにのびた美味しくないラーメンが食べたくなってきました…。

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この小説は全20回の連載予定です。

気が向いたころに来ていただければ幸いです。(ねーねー、次回が最終回だってよ、わくわく)


『笑い島』19

8の続き

「ああ。意外に重要だ。人間の三大欲求、睡眠欲、食欲、性欲の中でも一番これに気をつけねばならない。多くの人間が強く感じ抑えがたい衝動となる分、注意が欠かせない掟なのだ。それもそうだろ。生物が最も気にかけ神経質となっているものは何だと思う? 子孫繁栄だろ? 領土拡大、財産貯蓄なんつう物欲、金欲、名誉享受欲なんかは所詮、後付けの人間の欲望さ。それに睡眠欲、食欲っていうのもまずは自分の体を保護するための欲求に過ぎない。子孫を残せる体を維持するためにそういった欲求をつけて保っている。でも性欲というのは時に抑えがたい衝動となる。例え自分の体が滅びても子孫は残さなければならないという強い欲望となっている。とんでもない事件を起こすのは睡眠、食事を抑圧されているものより性抑圧者や性倒錯者に多いはずだぞ。子孫を満たせないかもしれないという本能にあるものが強迫観念となっておそってくるのさ」

そうなのか? そうかもしれない。昔、僕が何となく心に感じながらも言葉にできなかったのはこういうことなのかもしれない。だとしたならば、

「それぞれパートナーを見つけてでも」

「そこだよ。それなんだよ。人類のいさかいの元は。性欲という欲求を満たすパートナー。これがあるかないかというだけで多く一般的な動物は右往左往し、焦りだすのさ。自分にはない部位を求めて、一対一対つがいとなっていく。ただただそこで生まれてくるのは取り残された負い目と不安だけだ。対になるだけという簡単なことが、感情だとか愛情だとかに左右されパートナーがいるいないということに憤りや恨みを覚えていくのだ。そしてパートナーがいない者は焦りを感じて他の分野で強い力をつけていくという。容姿、性格、流通手段所有量。ここでまた所有物の多寡によって、人は争うんだよ。パートナーがいる方は当然の権利として、性を主張するのに対して性抑圧者は性の不足した生を力に超越性を以て他の分野で勝とうとするのさ。性を抑圧しているこの自分がこんな奴に負けるわけにはいかないんだ、ってね。んで、更にここでまたパートナーもなく所有物も生産性も劣る者が自分自身を喪失して落ちることになるのだよ。自分には補う者が何もないなんてな。だからだ。性相手としてはパートナーを作るなんていうことはない。結婚なんか以ての外だよ。もしこれが逆だったとしてもだよ。この島は性行為の抑圧から代償として自慰行為を掟として態々採られている。だが、もし、性行為奨励島なんだとしたら。さっさとつがいの性パートナーを見つけたらどんどん毎日気が済むまでおやりになりましょうだなんて。この話は性パートナーがいるといないでまた不満が生じいたとしてもあっちの方が良かった、こっちの方が良かったなんて言って揉め事が生じる。だから争いが起きないよう自己で処理するようなんてものだが裏を返せば性パートナーという固定的な観念を廃して誰もが誰もと自由に交われるなんてのもいいんじゃないかと考えられる。つまり異性とあれば誰それ構うことなくだ。そうすればみんなが性の楽しみを享受できるんじゃないかってね。これはこれでひどいぜ。猿や牛馬、畜生どもと変わりはしないさ。気が向けば牝性器に牡性器をぶちこみ出し入れする。凸の形は凹の形を見つけると吸い寄せられて一定行動を起こすってな。客観的に見れば、そういうことじゃないか。自分の意志とは違う。性欲という畜生並みの無意識で揺り動かされているだけだ。ここでまた争いが起きるよ。自由になった分、雄は乳袋の大きい雌、大声で喘いで尻を大きく振り回す雌を独占しようとする。牝の方も自分の性器を濡れさせより貫く巨根を持った雄に絡みつこうとするよ。そして満足させない雄は除け者にするはずさ。それがフリーセッ○スの行き着くところ。つまり野蛮な動物の極致だね。でも、私たちは人間だよ。言語然り道具然り様々な発明をした。その人間たる最もすばらしい発明は何だか分かるか?」

こちらを向いたのが分かった。影が動く。

「……それが自慰ですか?」

「ああ。そうだよ」

視界は下半分で何かが動いた。尻丸の長講話の間にすっかり太陽は沈んだ。主の光は見えなくなっていた末で完全に明るく身を失った遥か彼方まで広がる海の闇に月の光だけがひときわ輝く。

その月の光だけで確認しても、この男は腰に手を当てて今まではいていたズボンを下ろした。そう、確かだ。こいつは今僕の前でズボンを下ろした。

「オナ○ーだよ。オナ○ー。これこそが人間が獣を超越するために発明した根源的行いだよ。配合なくして、満足する。人間が神に反抗する唯一の手立てはセッ○スしないことだなんていうがね。オナ○ーこそがそれを成し遂げられる残された路だ。この島へ来て反抗しない者が行き着くところなんて思ったが知れないがこここそ反抗のときだよ。自分への遺伝子にこそ最大の反抗をして力を貯めてかつ抜くんだ。DNAの書き込みに楯突く人類最高の発明だよ、さあ、君もやれ、ヌくんだ。欲望を捨て、獣を超越した新しい生き物を目指すのさ」

仁王立ちしている男の前に何かが出っ張りそれを上半身から延びる四肢の一つが抑えているのがシルエットにて分かる。影は微動し熱気が放たれているのだかが分かる。

「変なヒューマニストは言うかもしれないよ。人間らしさ、動物らしさを忘れた進化はだね、だとか色々とね。でも少なくともこのお笑いを基とするこの島は成り立っている。君もそれに合う人種だ。この笑いを基にした哲学の共和体に適合する人種だ。ああ、これだよ、きもち。ただ、いうてもね、私たちは人間だよ。性行為によって受精卵ができなくちゃ、子孫を増やせない。だから夫婦制度はあるさ。血の繋がりを考えて近親婚が進まないよう家制度も残してあるさ。だから二十台後半にでも血のつながらない異性の家が迎え入れることになるのさ。あくまで義理の契約と割り切ることだ。島の仲間の一人であってそれ以上それ以下でもない。年に何回かの性行為をするための相手、子供をつなげる行いをごくまれにするだけの相手だってね」

陰茎を鷲掴みにしてピンハネ嬢の尻や頬の笑窪が思い浮かび膨張したが射精する前に少し柔らかくなった気がする。

「なんか切ないような」

「その感情が少し起こる分、やはり君も日本の中心で育った人間なのだろうな。相手を決められない結婚、限りあるセッ○ス。そんな強制、人類を馬鹿にするふざけた掟と思うかもしれない。だが、この割り切りこそが笑って生きられるこの島の秘訣だよ。そもそも家族だからっていう括り自体が血縁以外の同胞を排した初の差別だよ。少なくともこの島にいる者はみんな家族でいいじゃない? 仲間でいいじゃない? だって一緒に暮らしていて全部物は共有しているもん。深く考えない精神だよ。それでも、まあ年に五、六回の性行為だけでも、この島にはないとし、一人か二人の子供が生まれるわけよ。これでもう出生率だって一、五人くらいなわけじゃない。ちょうどそのくらいの割合で一人か二人は死んでいくのよ。悲しいけどさ。増えもせず減りもせず人口は百人くらいの島なんだな。で、たまに君みたいな漂流者が来るってところかな。五十年に一人くらいだけど。ああ」

シルエットの動きが早くなっている気がする。

萎れかかった茎も再びピンハネ嬢の尻や同じ布団で寝た時に当たった春雨の胸が脳裏に浮かび元気になってきた。

「ユーモアっていうのは人間を超越しなければならない。公式に従っているだけで意外性がなければ笑いは起きないさ。いかに我々は人生を馬鹿にしつつ、人生を楽しむかだ。少し離れたところから眺めてみて、まとめて笑い飛ばせる力が大事だよ。だから性行為をしたいという本能的欲求を排し、達観した立場から人間らしさを求めるべきさ。幼い頃にうんちで笑えたあの初期衝動的笑いでいたいじゃない。ちんちんだとかおっぱいだとか部分部分の笑いでいたいよ。ああっ、あっ、イク」

月光を背にした大海原へ向かって白い遺伝子が放たれた。

 

確かに、そうなのかもしれない。

昨日の尻丸との会話が脳内に渦巻く。頭蓋内では飽き足らずに口から言葉となって出てきそうなくらいに頭の中を巡っている。いや、

今になってみるとあの影と海に向かったこと自体が幻想だったかのように思えてくる。

久々の自慰行為は気持ちよかった。

父親公認で娘の丸い尻を思いっ切り浮かべながらぶっ放した。無許可ではあるのだがその妻さえも犯してしまった、頭の中で何度も。何度も何度も何度も。

尻丸は今までで一番良かったと帰る道で呟いた。昨日釣った蛸とだったのだが、心地よかったらしい。ヌき慣れたプロは僕とはオナペットの格も全く違うのだろう。

妻を、そう。パートナーをもったとき子供をもったとき、何か物を自身の物として所有したときからいさかいは生まれるのだ。自分のため、妻子のためと意識したときに他人を抜きんでようと周囲の障害物を排除しようとする。

確かに、そうなのだろう。

人によってはそれを愛と言い、人間らしいと称賛するかもしれない。物を蓄えようとする勤勉な心意気を携えて、よく生きようとする高い意識を持っている高尚な動物だなと褒め称えるかもしれない。だが。

その時点でこの村の掟を一つ破っていることになるのだから。

らしく生きてはならない。

僕らは人間らしく生きる。社会人らしく生きる。子供らしく、親らしく、教師、政治家、大工、男に女に貴族に平民に王様この町の人間あの会社の人間、らしくらしくらしく。

自分の帰属する意識を以てそれに恥じないような生き方をする。それは美学になるかもしれないが、それこそ争いの根源なのだろう。

らしく生きようとするため、笑える余裕を憎み、他人を蹴落としていく。これは私らしくない。もっともっと、らしくできるはず。こんな受け入れられない姿なんて嫌だ。

何か別の人間らしさを追い求めたレースに参加するため人間らしさを捨て見失いかけっところでそこに見えてくるゴールはたかが知れているのではないだろうか。

お金がそうだ。

本来。財やサービスを買うための代替手段にしか過ぎない道具が僕らを食い殺す。たくさん持てばそれだけ道を選べる幅を持てるかもしれないがそれを権力と考えてしまい不必要なまでに貯め込み、我を忘れていく。満足するところなどない。道具ということを忘れて、集めた金の行き着くところなど想像するのさえ虚無的ではないか。お金によって変えるらしさなんてない。だが、お金があれば他の人より少しいい暮らしをしてみたい。ちょっと自慢くらいしてみたいという自然な感情の成り行きがそれを知らなかったが最後僕らを蝕んでいく。

そのお金すらもここにはない。貨幣流通のない島なのである。

お金がないのだから物々交換をしているのかと人類交流の歴史を齧った人間であったら逆算していくかもしれないが、果たしてこの島には個人所有の物という認識される物すらないようである。交換しなくてもこの島にある全ての物は誰のものでもなく誰のものでもあるのだ。物に関しての一切が共有物であり、誰彼所有の区別がない。共産主義国家以上に物の共有制度はしっかり出来上がっているようだ。だからといって共産主義の風でもないのだ。

不用意な進化を止め、安定を求めた共産主義に失われた笑顔が齎す生きることの希望喪失はない。みんな新しいものに興味を示している。新しいものは何か。笑いである。ここの島の人間が前を向いて積極的に生きていられるのはやはり往々にして目標という大層なものがあるわけであってそれがここの島では笑いなのである。楽しく生きるという目標自体が笑いを求めることで成り立っているのだ。テレビが創る笑いともまた違った。どちらかといえば普段から落語やコントの世界に近いところで生きようとしているのかもしれない。大笑いが起きることはないがなんとなく面白い世界を作り出しその場の空気を楽しんでいるのだ。だから笑いが取れなければ面白くないということでもない。笑いがすぐに起きない世界でも言葉やモーションを使って楽しんでいるのだ。独特の世界を創りいつでも笑う。だからここに失敗などない。愉しみを求めて生きている。

この百人程度という単位や外部からの文化が流入してこないからというのもあるかもしれないが、誰もが村の掟を守っているのである。村の掟のどれをも守って、世界観を理解しているのだ。いさかいが起きそうになっても笑え飛ばしてしまっているのだ。

いさかいを起こし笑いをなくしてまで考えることなどない。

深くを考え込まず、なくても成り立つようなシステムなど無駄に創らない。

例えば。

また金の話になるが、銀行の信用創造のようなものである。お金が余っているから銀行に預ける。それを預かっているその金を、信用だけを基に他の人に貸してしまう。もし一斉に預金者が銀行へ殺到しお金を要求したら銀行はつぶれてしまう。信用だけで未来に伸びる時間という四次元的空間を用いてお金を殖やしているからだ。そこには存在していないお金が湧き出ていることになる。人の信頼を基にお金を貸せるというのは素晴らしい。お金が巡りめぐって確かに信用の上に成り立つお金はすごい量になる。どんどん物を空想で殖やしつつ誰かが入れ替わり立ち代わり参入して退出していけば全体的に発展していく。大発展となる。信頼関係が生む見上げたシステムではないか。

ただ、この島で生きているとそんな信頼関係こそ他に足着かないリスクにしか思えない。信頼だけで変なビルが建ち満足しそれが崩壊したときに命がかかわってくる。遊びに思えてくる。当然崩壊するべくして崩壊した関係が崩れて喚いているようにしか思えない。態々崖の上に土俵を作って止めればいいもののリスクを味わえて楽しいからと相手を信頼してまわしを取り何かの拍子に崖から転落して責任を取れなどと騒いでいる自作自演にしか思えなくなってくるのだ。結局は嘘っぱちでお遊びのような。どうしてじっとしていられないのだろう。暇ならどうして他の遊びを模索しないのだろう。僕らはみんな土俵の上に乗せられていて戦い方を学ぶだけだ。土俵を揺らすものは捕まって土俵を掃除するものは蔑まれて土俵の上だけにらしさのスポットライトが来る。結局遊びのためにそんなことして暇つぶしをするなら違う遊びを考えればいいではないか。土俵に全員乗せずにいさかいの起きにくい新しい遊びを考えてもいいではないか。遊びのために始めた相撲に戦い方を仕事として泣きながら遊んでいる。

ゆとりは堕落と教えられて。

そんな見えない禁欲的な遊びまでして。よく生きていくうえでの心のゆとりだ。

やはりここは変化を失い、停滞したところなんかではない。

常にその場を楽しんでいる。笑いの場になっている。

今日の午後は大変なことになった。午後三時ごろから百人か百三人の全員が歌い始めて合唱大会になってしまったである。

古くなったタオルを縫い直していたところである。裁縫仕事は広場近くにある裁縫倉庫か東変朴邸宅にて行うことになって、たいていは十人くらいで仕事に取り掛かる。裁縫倉庫の片隅で黙々と中が破けたタオルを折り畳み縫い合わせていると、えんぴつ魔人の母親らしいナス(なす)自分(じぶん)という女が鼻唄を奏で始めた。それに近くのやもかもめやヒノエ馬子がノリ始めるとツッコミなし状態のままそこにいた全員で歌い始めたのである。

そこへ外から余った布を取りにきた保健(ほけん)書道(しょどう)ツッコミを入れることなく鼻唄を伴いながら出ていくと、数分後には外から倉庫の中を上回るほどの声量で帰ってきたのだ。やもかもめが外を見に出たのを皮切りにみな仕事を放りだし出てみると、既に五十人ほどの島民が集合して肩を組んだまま大合唱をしているのである。留まることなく島民は集まり続け、午後の活動時間中だというのに、全員で自然サボりとなったのだ。

途中でまだ夕飯の支度もまだできていないことに気付いてほぼ全員が夜の大宴会準備にかかった始末だ。大トリがステージへ出てくる頃にはもう暗くなっていた。

そう。みな何も考えずに楽しく生きていた。

ある一定の掟だけを守り生を馬鹿にしながら生きている。

なすがまま、ありのまま。

誰とでも打ち解けて、受け流す柔軟さをもっていた。

かといって、翌日同じようなことをして過ごそうとはなかったのだ。

みな、あっけんからんとして昨日の大合奏? 何それ? みたいな顔でその日その時のやるべきことをしているだけだ。作りかけの何かがあれば最後まで修正を加えるし足りない何かがあればその時その場にいる誰かと相談して話をすすめていってしまうのだ。

基本的には総括するリーダーなどいないのだ。誰もが島の一から百までを知っていなければならない。それがこの島に生きているということなのである。日替わりのMCが伝えたいことがあれば朝仕事の指示連絡をするだけなのだ。MCという名のここでのまとめ役はあくまで一スキルなのだ。漫才をやる、コントをやると同じで司会をやるに過ぎない。

合唱も実際、舞台で一度経験したし、演奏もタンバリン役として一度出演した。なんとこの僕がラップ対決にも参加したのだ。ただしゃべるだけと思っていたこれがまた難しい。常に頭の中でリズムを刻み早口で話せるよう口の回転も頭の回転も速くして、流れるメロディに実際声を出して台詞を乗せてみないとできないものだ。また、音感や言葉の響きにも敏感になっていなければならない。ラップで常に感じるのは己の主観なのである。己の好きな言葉の響きを世界観と共にリズムに乗せる。

Yeah、俺の言葉の連鎖起こす、その名を血液検査ー

まずはガチリと一発チャレンジ求めるアンサー

よどみなく挑みたく水が如く流れるソルジャー

どっからわいたは関係ねえ、とにかく掘るんじゃ

笑いの泉、世界観ガンガン宿る掟に感謝

最初は口にするのさえ難しかったリズムが口から出てくるようになる。言葉が出てくるようになってくると韻も少しずつ踏めるようになってきた。まずは舌足らずなこの僕は思ったことを言葉にすることからだったのだ。言葉にすることでまとまってくる。新しいジャンルが拓けた。

何事もこなせる最強のコメディアンになるのだ。

常に生活のエンターテイメントになるのだ。

他人に干渉せず、欲望も持たない。赤子のように無心の気持ちを以てただ生きるのである。普通に生きていれば必ず青年期に反抗的な気持ちを迎えるし、性的衝動から駆け出したくなる。それをこの島の人間はうまくお笑い道に、誰にも認められる笑いの実力に賭けることによってうまく消化できているのだ。

当初この島には小さい枠で出来上がってしまった島で伸びることももうないと思っていたが、そんなこともないのだろう。人間が一生、純粋な気持ちの身を持って生き貫くことなんかできない。性欲、食欲、睡眠欲の上に成り立つ知識欲、好奇心が必ず反社会的なことにもいたいけな人間を誘っていく。自分が何であるか、どうして生きているかに悩み反抗的な態度から人の反応を窺うなんていうこともあるだろう。そこにある深奥の哲学に達したうえでなければここまで開き直った態度はとれない。

では、この島で島民たちを理性づけている思想的なものはどこにあるのか。それが人から人へどんどん伝わってきている村の掟である。青年期に必ずやってきそうなポイントで性は慎めなどと矯めて自分で処理する様にと向けている。矯めてといえばそれは自由の無さを感じさせるかもしれないがそれに反抗したところで何にもないどうでもいいのではということだ。疑問をもったとしても深く考えないように指示されて、うやむやなまま人生を客観的に見つめさせ、人生の無意識さをゆっくり自身の力で悟らせようとしているのだ。人生に答えなんてない。どうせ、遊び。演じて楽しく過ごすことが目的なのである。

果たしてこんな村の掟を誰が考えたというのか。

ここまで開き直って村の掟を定めた者が事実納得しそうな世界が現にここでこう成り立っている。この島を創りあげたのはどういった哲学者なのか。

深く考えてはならないと頭を巡って考えを中断はしたが、この島の歴史というものは何度も気にかかっている。電話や電気がないというのは納得できるのだが、文字がない島というのが今時ある物だろうか。役場の支所もなく定期便もない。

第一、個人の所有物という概念がまるでないのだ。いや、あるかもしれないが、みんなそれをどこかに抑え込み、全く現実には表れない世界で平然と暮らしている。

僕がこの島の歴史を知りたいと思えど深く考えるなと自分に言い聞かせる頻度が高くなってきたときにある掟を教えられた。その掟はこの島、最後の掟であるともいうのだ。

ばぶうでもない。

えんぴつ魔人でも尻丸でもない。

村で最もコメディアン才能に長けていると言われている二番目の年齢記録保持者、東変朴のじいさんが直々に伝えてきたのだ。――この島の歴史を調べるな。

僕はこの時、全てを達観し様な気がした。

不満でありながらもこの島で生きるということ全てを納得できた。

港から故郷に帰ること、島で生きるということ全てを納得できた。脳裏のどこかからブレーキをかけられている感覚が事実あったのである。それを知ることはお前がこの島で笑いと共に生きる生活を脅かすこととなる。たとえ、事実を知ったとして、想像しうる最悪の結末になったとしたらならばどうなるのか。お前はこの何も考えずに楽しんで生きるということができなくなり絶望の元続けさせられることになるのだ。この島の人間はもしかしたら、これに気付いて生きているのではないか。元々、人生を達観して生きることを奨励しながらも、更にその裏のからくりに気付いて生きているのでもあればそれは延々の地獄……ここで発狂しそうになり、僕が村の掟、何度も唱えた。

考えるな考えるな、深く考えるな。結局、意識を持つということが苦しみなのか、いや、考えるな。深く考えずにあせらず、おこらず、ねたまず、そしておちなければ人生は楽しい。

そう。考えずに生きる。

考えなければ、ここはユートピアなのだ。

思い返せば沖縄へ出かけたということ自体も事実なのか分からなくなってくるのだ。

本当にここに僕がいるかも分からなくなってくるのだ。

あたかも物語の一登場人物にしかすぎないような。そう思った時点で人生がひどく陳腐で胡散臭い舞台に思えてしまうことも分かっている。もし、ここで本当の僕は、どこか遠く離れた異次元空間で自宅の部屋に籠り右手の平や小指脇を真っ黒にしてひたすらノートに文字をつづっているなどと考えれば、そこでこの物語価値は一挙に欠落しメタフィクションに過ぎない使い古されたギャグとなるのだろう。物語に一貫性がなくなる逃げ道、三文小説。だから深く考えてはならないのだ。

ばぶうやえんぴつ魔人、尻丸らの顔が思い浮かぶ。

笑い島で生きることを決意し留まる意思があれば僕はここの住人なのだ。

そういえば、五十年ほど前、僕と同じように漂流した髭達磨は情報手段もないこの町でどうやって戦争が終わったことを知ったのだろう。

 

(続く)

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