私はラーメンが好きだ。
時折、「なぜ私はこうもラーメンを食べるのだろうか。そこまでしてラーメンを頻繁に食す必要は果たしてあるだろうか」という極めて高尚なる禅問答を自らに課すほどにはラーメンが好きだ。
ただ、私のラーメン好きは現実的なものである。
毎日3食ラーメンであるだとか、あらゆるご当地ラーメンに精通しているラーメンマニアであるだとか、そういったタイプではない。
週一以上でラーメンが食べたく、新しいラーメン屋ができれば非常に行きたくなり、来たことのない駅にくればまずラーメン屋を探したくなる。
そういった、現実的なラーメン好きなのである。
さて、そんな私が大学生時代特に愛したラーメン屋がある。このブログでも書いたことのある「花田」だ。
濃厚な味噌のとろみ、それを絡める麺の絶妙な太さ、食感。そしてネギ、ニンニクといった主役に劣らぬ存在感を発揮する野菜たち。
そんな花田に先日久しぶりに行ってきたのだが、そのときに私が感じた「ニンニクの重要性」について語りたいと思う。
※この記事は、いつもと違う口調でお届けしたい。いつもは”便利なブログ然”とすべく、あまり得意ではない「です・ます調」で迎合しているが、今回は自由に「だ・である調」で書かせていただく。そして、その方が私は本音で語れ、更に本音で語りやすくなる上に無駄な装飾文がぐんぐん書けて気持ちがよいのでそのようにする。読者方々にとってそれがプラスであるかマイナスであるか、私には現時点ではわからない。すべてはこの記事の反響とPV数が語ってくれるだろう。かくして私は、このように無駄な文章で文字数を無駄に増やしながら、特に有意義でもないラーメンとニンニクの話を書こうとしているのであった。では、素晴らしきもの好きな方はここからしばしお付き合いあれ。時間の大切さを痛く理解している賢明なる読者におかれましてはどうぞこの記事を読むことなく自己啓発本などを読んでいただくのがよいだろう。
ラーメン花田におけるニンニクの重要性
まず、花田と私の出会いは友人からの推薦によるものだった。
私と花田の出会い
大学時代、池袋のラーメン屋を食いまくり、食い荒らし、ラーメン通になろうと躍起になっていた私だったが、当時友人から聞いた「花田」という店はまるで知らなかった。これが私が現実的なラーメン好きであることの証明なのだが、ラーメンマニア、オタクというにはモグリだったわけである。
自分の足でさんざん食べ歩いていたにも関わらず、人から勧められたラーメンを食べたらいとも簡単に歴代一位のラーメンになってしまうのだから悲しいものだ。もちろん視点を変えれば、「口コミによって美味いラーメン屋を見つけた」となるのだが、私としては自分で花田を見つけて友人に勧める側でありたかったのである。
当時の私は初めて食べる花田のラーメンに痛く感激した。記憶が正しければ、一口目から感激していた。少なく見積もっても二口眼には感激していたであろうことは間違いない。
食べログだかぐるなびだかで1位を獲得していたので、行列もできており、私の無知っぷりを思い知らされつつもとにかく美味かったから満足したものである。
…とまあ、そんな出会い話はこんなものにしておき、その後私は定期的に花田に通うようになる。ただ、新規開拓と同時並行なので、花田の常連になろうという気はなかった。ただ、大学在学中のみならず、卒業後もたまに通っていた。
しかし、ここ最近は住んでいる場所も変わり、花田から遠ざかっていた。何年も食べていないわけではないと思うが、1年ほど花田を口にしない生活が続いていたのである。
ヒゲ脱毛が与えた、花田へのチャンス
池袋以外にも花田はあるのだが、花田がある駅に用があることが少なくなり、花田以外のラーメンでラーメン欲を満たす日々が続いていたわけなのだが、ここ最近、また池袋に定期的に用事ができるようになっていた。
というのも、私は無精ヒゲ体質のため、池袋にてヒゲ脱毛を行うようになったのである。まるで本項とは関係のない急なカミングアウトをしてしまったが、本当に関係ないのでこの話はここで終わる。
とにかく、ヒゲ脱毛で池袋に行くので、そのついでに花田に行くことができるようになったのである。そして、行ってきたのである。
一度は行列の長さに、店の前まで行ってあきらめ、隣にある「まるはな」で我慢をした。系列店で、こちらも美味かった。ただ、私は諦めきれず、再度花田を目指した。
二度目は時間帯が中途半端だったこともあって、行列が少なかった。3組ほどだったので、迷わず並んだ。
久しぶりの花田
そして、
味噌ラーメンを頼んだ。私のブログを見返す限り、以前は830円だったはずだが、850円か860円に値上がりしていた。
そして以前の写真と比べると、若干色が薄くなっているような気もするが、カメラや光の問題かも知れない。
そんなことは気にせず、私は念願の久しぶりの花田を食べる。
昔の記憶がよみがえる。
味噌のとろみ、とんこつラーメンのようなこってりさ、しかし油まみれではないまとまり具合。深く染み入るこの感じは私にとってみれば赤出汁の味噌汁のようなもの。心が温まるとはこのことか。
麺もちょうどよい太さで、スープを吸い取りすぎず、しかしよく絡む。で、その結果美味い。ネギやもやしが食感も楽しませ、私は至福のときを過ごすこととなった。
…が。
しかし。
食べ進めると徐々に物足りなさを感じてくる。
これはなんなのか? 確かに美味しいのに、どこか感じる物足りなさ。
そんな折、私は食券を店員さんに渡すときのある一幕を思い出した。
「味噌ラーメンですね。野菜、にんにくは増しますか?」
店員は花田を楽しみにして鼻を伸ばしている私に、的確に尋ねた。
「えっと。野菜増しでお願いします」
一瞬の迷いの後、私はそう答えた。
「かしこまりました!」
店員は明るくそう答え、店の奥へ戻っていった。
…。
ニンニクが欲しい。
ニンニクの不在、いや、不足。
いや、正確にはニンニクは最初から恐らく一定量入っている。だが、量が足りないのだ。
私は様々なラーメンを食べてはきたが、やはり最終的にラーメンに求めるものはどこかジャンクさのあるパワフルな味である。あっさり系も美味しいが、なんだかんだガツンと来るラーメンほど心に響くものはないのだ。
と言って、油に弱い私はジャンク過ぎるとダメなのだが、とにかくスタミナが付くような庶民の味方であるような、そんな雰囲気をラーメンからは感じたいのである。
そして、庶民の味方の象徴といえばニンニク以外の何物でもないことは誰もが認めるところであり、日本国憲法にもその旨が刻まれていたような気がするところである。
私はこの花田の味噌ラーメンという、しつこくくはないがこってり系であるラーメンに、やはりパワフルさを求めていたのである。
食べれ進めれば食べ進めるほど強くなるこの気持ちは恋か、愛か、憎しみか。
私はニンニクありの花田の味噌ラーメンを知ってしまっているばかりに ーそう、久しぶりに食べるので詳細な味は忘れていたつもりであった。だが、人間の身体とは恐ろしいもののようだ。ニンニクありの花田の味を舌は、そして脳は確かに記憶していた。その味が、ニンニクなしの花田を食べ進めるとともに徐々に輪郭をはっきりと浮かび上がらせ、”ニンニクあり花田”と”ニンニクなし花田”のコントラストを強めていく結果となったのであるー 、私の脳は舌は、魂はニンニクを求めてしまうのであった。
しかも、花田のニンニク増しは、ニンニクが別皿で出てくるはず。少なくとも以前はそうだった。
であるならば、いくら私がこの後、ほかの人と会う予定があったからといって、我慢せずにニンニク増しにすればよかった。適度な量で調整することができるのだから!
…そんな後悔の念が頭をぐるぐると回り、そして螺旋階段のように回れば回るほど強い想いとなっていく状態で、私は花田の味噌ラーメンを食べ進めた。
勢いでニンニクなしと言ってしまったが、ニンニクは恐らく入ってはいる。だが、私にとっては不足している量だ。
そんな、最高のラーメンを食べているはずでありながら、真の最高さを手に入れるのに必要なものが脳内にありありと浮かぶ状態で、私は花田の味噌ラーメン(ニンニク不足)を完食した。
美味しかった。
美味しかったよ。
ただ、私はこのとき思ったのだ。
ニンニクがあれば、もっと美味しかったはずだと。というか、ずっと思っていた。
ああ、私はラーメンが好きなのか、ニンニクが好きなのか?
そう思い、仰いだ空はまだ明るかった。
さて。
次の予定に向かうとするか。
さほど臭くない状態で私は花田を後にした。その後ろ姿に、ニンニク臭の代わりに哀愁が漂っていたことは言うまでもない。
ニンニクや
ああ、ニンニクや
ニンニクや
ー 完 ー
まとめ
別にまとめもくそもないのだが、一応ブログらしくまとめる。
今回の体験で、私のラーメン歴の中でも最上位レベルのラーメンでも、ラーメンの繊細な味付けやこだわった素材以上に、ニンニクという調味料の有無はその満足感を大きく左右する存在だということがわかった。
もちろんニンニクもこだわったニンニクであろうことは否定しない。しかし、ニンニクというのはそこまでいいものでもなくても、その料理に恐るべきほどのパワーを足せるものなのである。
時折そのパワフルさを悪用(?)され、雑な料理に適当にニンニクを入れまくるようなメニューも世には存在しているし、それに気づかず(もしくは気づいていたとしてもこれはこれでよしとしてなのか)、ありがたいと言わんばかりに美味しく食べまくり何度も足しげく通うファンたちがいるようなこともある。
しかし、花田はちゃんとしたラーメンでありながら、やはりニンニクを増すかどうかでそのパワフルさたるや、なかなかの違いであった。
何が言いたいのかもはや不明だが、というか特に言いたいこともないのだが、とかくニンニクというのはどんな料理に対しても良くも悪くも非常に重要なエッセンスになり得る、ということである。合わない料理に入れればたちまち台無しになるし、合う料理に入れればこれまた筆舌を尽くすほどの良さを発揮する。
私も、ニンニクのように個性鋭い映画監督なり作曲家なりブロガーなりになりたいものである。
どうだろうか、この記事を読んだ皆さんになんとなく「有意義な記事だった」と勘違いさせられるくらいにはまとまっただろうか。こんなときニンニクが文章にも使えたらなんて楽なものだろうか。
それでは皆さん、ごきげんよう。