不毛な記事

ブログに書くことがないときどうするか?【無理やり書く実験】

2015年6月19日

書くことがない

ブログを始めた。
ブログを書き続ける。

ぜんぜん人が来ない。

がんばって書き続ける。

少し人が来るようになる。

書き続ける。

書くことがない。



そんなときどうすればいいか?

私は実験することにした。

そう、今私はまさになにも書くことを考え付いていない。
困ったものだ。

だが、記事はなるべく毎日書きたい。

どうするか。

書くしかない。

実験開始

実験

なにも書くことがないのに無理やり書いたらどうなるのか?

私はそれを実験するのだ。
こういうことは今までにも何度もやってきた。

きっと最後はどうにかなることだろう。

そう信じて、私は今もこうしてキーボードをカタカタと打ち続けているのである。
書くことは何も考えてなくても。何も勝算はなくても。ただひたすら突き進むように記事を書いたらどうなるか、私はそれをやるのである。誰に言われるでもなく、ただやってみるのである。

私がもし諦めやすい人間だったらどうなっていたか??

答えは簡単である。

今日は記事を書いていないであろう。

しかし

しかし、私は書いている。

その証拠は必要ないだろう。

あなたが今見ているそのブログこそ、この記事こそがその証明になるのである。
ここまで読んでいる人がいる時点で私は諦めないことによって、少なくとも一人の読者を得たことになる。

本当に一人の読者しか得られなければ、私は労力に見合わない結果しか得られなかったことになるだろう。

しかし。

しかし、5人くらいが見てくれれば、それだけで結構お得である。

なぜなら…
私が普段、結構力を入れて書いているこれらの記事も、毎日8~17人くらいしか見ていないからである。

力を入れずにその場で書いたものが5人に読まれればもうけものである。

しかも!

ブログは減らない。
意図的に消したり、恐ろしい規約違反を起こして運営に削除されたりしなければ、ブログの記事は書けば書くほどたまっていく。そして、読まれても決して減ることはない。

今日は5人にしかこの記事が読まれなかったとしても、いつかこのブログ自体が成長していけば、この記事ももっと多くの人に読まれるかもしれないし、毎日毎日誰かが少数でも読んでくれるのであれば、合計数で言えばこの記事はけっこうな人に読んでもらえることになる。

そう考えるとボーっとテレビの音声(今は背後からダウンタウン松本の声が聞こえる)を聞きながら書いているこの記事への想いも強くなり、テンションもあがるというものである。

しかし!!

適当な記事が大量の人に読まれる危険性があるという考え方もできる。
ちょっとした気の緩みで書いたこの役に立たない記事が多くの人に読まれることで、多くの人が私を「無能」と判断し、このブログに「不要物」の烙印を押し、二度と見ることがなくなるかもしれない恐怖があるのだ。

これは恐ろしい。

そう考えると、こんな記事は丸ごと消し去り、決して誰も読むことのないよう、黒歴史の中に封印するのが最善にも思えてくる。

しかし…

矢印

皆さんはおわかりだろう。

この記事を読めているということは、結局私はその判断をしなかったということだ。

これがどういうことかおわかりだろうか?
恐らく誰にもわからないだろう。

そう、私はこういう選択をしたのである。

「リスクを回避し、無駄な行動はせず、保守的な人生のために記事を抹消する」

のではなく、

「たとえ危険を冒しても、未来を掴み取る為に己の力を信じ、魂の執筆をする」

という選択を。
そう、私はこうして世界の救世主となったのである。

結末

終わり

選択は続く。

どういうことか?

選択をしてそれで終わりということはない。ということだ。

選択をするということは、それぞれの選択肢にそれぞれ何か想定される「続き」があるものだ。

選択をすれば、その後には、選択した道の続きが待っている。

選択の結末がわかるのはその道の先だ。

そう、私が今日、夜中0時過ぎに選択したこの道は一体どういう結末になるのか?

私は今、その結末へと向かう道の途中にいる。

結末はどうなるのか。

それは今は決してわからない。

それがわかるのは、この記事を投稿した後だからだ。

さあ、果たしてこの記事は何人に読まれるのか?

何人がすぐ閉じ、すぐ戻り、二度と来なくなるのか?

はたまた何人がこの記事により、このブログを気に入ってくれるのか?

それが決まるのはこの後だ。

さあ、

クリックの瞬間だ。

あとがき

…と、色々書いていたところ、結果的にかっこつけた記事になって終わったようだ。
このあとがきは余計かも知れない。だが、これなしで記事を投稿するほどの覚悟が私にはなかったのである。

あんなドヤ顔で記事は終われなかったのだ。

このことが吉と出るか、凶と出るか。

その結末もまた、まだわからない。

人生は選択の連続なのであった。

【続く】