こんにちは。ブログの管理人です(@kaiten_keima)!
いつも作曲や映像編集、ちょっとしたプログラミングをやっている私ですが、色々やろうということで、今回は「松尾芭蕉」の話を書きます。
急に”芭蕉”に詳しくなってなにかを得てみようではありませんか。
…さて。
誰もがご存知、松尾芭蕉。偉大なる俳人として名を馳せる歴史的な文化人である。
しかしその影には、実はあまり知られていない人物の影響があったのである。
芭焦の作風における山口素堂の影響
この記事を書くにあたって、まずは芭蕉の作風について理解しておかねばなるまい。芭蕉は初期の頃こそ、談林派という作風だったものの、途中からは蕉風と呼ばれる独自の新しいスタイルに移っていった。では、談林派とはなんなのかということだが、その前に貞門派について語ろうと思う。
貞門派とは
しょっぱなから知らない単語だらけでやる気が失せたかもしれないが、順を追って説明するからもう少し辛抱してほしい。
貞門派とは、江戸時代の歌人であり連歌師でもある「松永貞徳」によって切り開かれたものである。
即興性を重視し、それまで以上に俗言や滑稽さなどを取り入れた俳諧連歌というスタイルをとっていた。 そのため、庶民からも好まれる連歌として一般大衆化していき、俳諧連歌の大流行の引き金となった。それが貞門派である。
この後に現れるのが談林派である。
一世を風靡した貞門派だが、それも次第に古いものとして扱われるようになっていってしまったのだ。今でもお笑い芸人を見ていると流行りの移り変わりは激しい。当時から庶民にとって流行とは消費するものだったのであろう。
また、貞門派の俳諧が俗言や滑稽などを取り入れているとはいえ、当時の新風俗や下品な流行り言葉などは規制していたこともあり、新鮮味が薄れ、刺激を求める庶民たちは離れていったと想像できる。
そのような時期に現れたのが、連歌師 「西山宗因」である。
宗因は、町人の感情を取り入れ、当時の遊郭や芝居なども題材として、さらに俗化した俳諧を目指したのである。
こういった宗因を中心とする一派を「談林派」と言うのである。
談林派
談林派の俳諧連歌は世間に受け入れられ、これまた一世を風靡する。
…のだが、面白さだけを追求したそのスタイルは諸刃の刃であり、深みがなくなった談林派は次第にマンネリ化の一途を辿ることとなる。 そして、わずか十年ほどの短い期間で衰退してしまうのである。やはり、刺激の強いものはハマるのも早いが、飽きるのも早いのかもしれない。
そして、ここからはとうとう蕉風についての話となっていく。松尾芭蕉も当初は宗因に心酔し、談林派に加わりながら俳人としての地位を確立していったのだが、 次第に談林派では満足が出来なくなり、独自の俳諧の道を切り開いていくこととなるのである。
芭蕉は俗世間を離れ、深川の草庵で暮らしながら、独自の俳諧の作風を生み出していくこととなる。こうして宗因に代わり、 芭蕉が俳諧の中心となるのである。そうして「蕉風」という作風が、芭蕉によって作り出されたのである。
芭蕉の試み
連歌の最初の句(五・七・五)を「発句(ほっく)」と呼ぶのだが、芭蕉は、この中に全てを表現しようという新しい試みをしたのである。
その結果、連歌の発句だけが独立し、それが「俳句」となったのである。また、それと同時に俳句には必ず季語と切れ字を入れるという規則も作られてゆくのであった。
17文字という限られた中に色鮮やかな情景、感情を表現できるようになったのは、芭蕉あってのことである。切れ字と季語によって、おのずと情緒ある句になるような作用を生みだしたのである。 これにより、芭蕉の俳人としての地位は揺るがないものとなる。
蕉風の特徴
この「蕉風」の特徴がみなもご存知の日本の文化、「わび・さび」 にあるのは疑う余地など微塵もない、紛れもない事実である。
侘び(わび)・寂(さび)
「侘(わび)」は「閑寂な美のおもむき」「さびしいこと」、 「寂(さび)」は「閑寂なおもむき」「古びていて上品なおもむき」のことと辞書にはある。
芭蕉は、静けさや古さの内面からにじみ出てくるような美しさ、言葉には表せないような繊細な情景や心情などの奥深さ、などを表現しようとしたのであろう。
これは「阿吽の呼吸」などからもとれる、日本の「言葉にしない美学」と深く通じあっていたのではないかとも思う。(阿吽がいきすぎて「やばい」が使われ過ぎているのかも知れない。→「やばい」という言葉について考察してみた【便利? 曖昧?】)
山口 素堂、現る
…ここでやっと素堂の登場である。
彼は芭蕉よりも2歳ほど年上で、相互に信頼しあって兄弟のような交わりをしていた。素堂は儒学・書道・漢詩・能楽・和歌にも通じた、当時稀有な教養人であった。
特に漢学の素養が深く、これが芭蕉の作風にも影響したのではないかと思われる。漢文というのは文法的にも表現的にも省略の多い文化に感じられるが、これはまさに少ない文字数で様々なものを表現する俳句に繋がっていったと想像ができる。
漢学に深い素養のある素堂と交友を持つことで、芭蕉にもそれが影響したと考えることは難しくないだろう。彼との親交があってこそ、たった17文字で情緒豊かな世界観を生み出す俳句は完成し得たのだろう。
まとめ
以上のことを考えると、芭蕉と素堂の文学的関係性というのは、実はこうだったと言えはしないか。
「まず素堂が芭蕉の蕉風における土台を作りだし、それを高く積み上げていったのが芭蕉であった」
と、こういう関係だったのではないかと私は思う。
偉大なる俳人の影に知られざる人物の影響があった、とそういう文化の裏側の話である。
以上をもって結論とさせていただく。
◎参考文献
『芭蕉と京都俳壇―蕉風胎動の延宝・天和期を考える [単行本]』
著者:佐藤 勝明 出版社: 八木書店 発売日:2006/1/16
◎参考URL
・山口素堂の研究:芭蕉との交流を中心に