昔、このブログでたまにやっていたシリーズが復活。急にレポートっぽい記事を書くというシリーズである。管理人の私はこういうレポートも好きなのだ。管理人とか言ってるが、管理は好きではないのだ。
なにはともあれ、今回は題詠歌と日常歌の違いについて書いていこうと思う。だが、ここに書くことはあくまでも”私が考える題詠歌と日常歌の違い”として、正解ではなく一つの意見として捉えて欲しい。
…わけだが、その前にまず題詠とはなんなのか、というところから語らねばなるまい。興味のない人からすれば全く聞いたことがないことだろう。
なんとなく予想してみると、漢字を見るに、「お題を詠む歌」であることが伺えるだろう。となると…短歌かな? などという考えが浮かんでくるはずだ。
短歌における題詠とは?
さて、ネット検索で答え合わせ。便利な時代になったものである。
百科事典マイペディアによると、
あらかじめ設定された題によって詠作すること。短歌では,《万葉集》のころにもあったが《古今和歌集》以後特に多くなり,歌合や屏風(びょうぶ)歌が盛んになるにつれて題詠が歌の本道のように考えられた。
出典:百科事典マイペディア
とある。
というわけで、短歌における歌の詠み方の一つが、「題詠」だと言えるだろう。和歌、俳句、川柳でもいいのだが、ひとまず短歌としておく。
ここで今回私が注目する点は、「あらかじめ設定された題によって詠作すること」という部分である。お題を設定して詠むことで、作品的な意味が変わって来るのである。
音楽で言えば、映画やバレエなどの音楽は題の設定された音楽であり、純音楽ではないと言われてしまうこともある。私が愛するドラクエの音楽のように、ゲーム音楽も完全に題がある。
しかし、ベートーベンの「田園」のように、標題音楽でありながら純音楽のように扱われている音楽もある。題があることによって芸術性が劣る…などと言うことはないと考えられよう。
題の設定は作品を縛り、つまらないものにしてしまう可能性もあるが、逆に題からイマジネーションが広がり、題なしでは作れなかっただろう物ができるようなこともある。また、作品の受け手からすれば、題のあるものは比較的受け容れやすかったり、共感しやすくなったりする場合も多い。その作品が何を伝えようとしているのかが明確になるからである。
ちなみに、題によって作品の意味が変わるといったが、例えば明るい曲があったとして、これの題が「楽しいお祭り」ならそのまんまだが、「抑圧された社会」なら表層的な明るさをまとった狂気的な曲に思えてくるだろう。ソ連の作曲家はそんなような面白さがある。
J-POPも題詠?
ちなみに、JPOPの恋愛歌なども題詠が基本である。
- クリスマスソング
- 卒業の歌
- バレンタインソング
これらなんかは代表的な題詠だろう。ほかにも夏ならば花火を一緒に見るシーン、冬ならばスキー場での恋なども題と言っていいだろう。
題詠の特徴
このように、題詠歌はそもそものお題自体が洗練されたものばかりなので、名作を作りやすいと言えよう。お題の持つ力を借りる節もある。
また、題詠は歌の内容が、自分が体験して感じたことではなく、題から想像される世界を思い描き、それを歌にする、という形になりやすいのではないか。
例えば私がクリスマスソングを作るとしたら、実体験ではなく、よりロマンチックな設定や情景を考えてから作るような気がする。それ故、題詠で作られた作品は虚構の世界を楽しむ、もしくは理想的な世界観を楽しむタイプのものが多くなると考えられる。それは院政期だろうと現代だろうと未来だろうと、きっと変わりない普遍的な事象であろう。
実際の題詠
ここで実際の短歌を紹介しよう。
霞立つ 峰のさくらのあさぼらけ くれなゐくくる 天の川波
これは定家が「花」という題で詠んだ歌である。
「ほんのりと朝が明ける頃、霞がたなびく峰々の桜の景色は、あたかも天の川の波を紅に括くくり染めしたかのようだ」
といったような意味合いである。
実際に定家がこの風景を見て、感動して歌を詠んだ、というタイプの歌である可能性もある。
…だが。
恐らくこの歌は、「花」という題から想像し得る限りの美しい情景描写、状況、心情、趣を表現した歌なのである。
聞き手はそれらが詰め込まれた歌を聞き、再びその歌から美しい情景や繊細な心情などをイメージし、感動するのである。パソコンの圧縮、解凍と似たようなシステムとも言えるだろう。なんの趣もないような解凍、圧縮と、ロマンあふれる題詠歌が繋がるというのは面白いことである。私が勝手につなげたのだが。
ともかく、今回は「花」という題を例にしたが、もちろん恋愛に関する題の場合も同様のことが言えるだろう。恋愛でなくてもそうだ。これが、私が考える題詠というものである。
日常詠とは?
次に日常詠についてである。これは当然だが題詠とは違い、お題に沿って作るというものではない。
- Aさんに結婚を申し込むとき
- Bさんと別れるとき
などのように、各々がそれぞれの場面で感じたことを詠む歌なのである。
題詠歌が比較的、普遍的なものを詠んでいたのに対して、これは個人個人の思い入れ如何で大分歌の内容が変わって来ることが予想される。
”結婚”で題詠
たとえばこれが”結婚”という題で題詠歌を作るのであれば、
「幼馴染でずっとお互い好きだったが、なかなか気持ちを言い出すタイミングがなかった。しかし20年来の気持ちを今とうとう伝えた」
「高根の花である姫様に身分を越えて結婚を申し込んだ」
だとかのように、理想的な内容で詠むのではないだろうか。
”結婚”で日常詠
しかし、日常詠でAさんへの求婚を詠むとすれば、
「Aさんは私が何か言うといつも穏やかに笑ってくれる。そんなAさんに、いざ決心して結婚を申し込んだ。そのときもAさんはいつもと変わらない穏やかな笑顔でOKをくれた。そんなところが好きだ」
みたいに、個人的なエピソードなどが入りこむのではないだろうか。
より具体的な描写と、主観的な感情が日常詠には入って来るのではないかと思う。日常のふとしたワンシーンなどを捉えた、繊細で微細なものが日常詠には多くなるのではなかろうか。
お題になって多くの人がそれについて歌を詠むという程のものではないけど、「私」は感動した、気になった、というようなものだろう。そして作品の受け手も、そういった歌の詠み手個人個人の主観を楽しむ、というスタイルで歌に接するのが日常詠の楽しみ方なのではないかと思う。
その結果、詠み手は深く共感できる場合と、なんだそりゃ、となる場合に大きく分かれてしまいがちなように思う。特に、恋愛歌の日常詠であれば、それは顕著となろう。恋愛の価値観は細かいところに入り込めば入り込むほど千差万別なのだから。
繊細でなんでもない日常を歌に
たとえば、道を歩いていたらどんぐりが一個落ちていたとする。こんなことは決して題詠歌の題なんかにはならないだろう。
だが、一面まっさらな、きれいな道の真ん中に一つだけポツンとどんぐりが落ちているその様子に、なぜか心打たれたとしよう。そこから発展して、そのどんぐりが、密かに気になっていた、誰もいない放課後のクラスで一人熱心に勉強をしている少女のイメージと重なったとしよう。
そうしたときにそのことについて歌を詠んだとすれば、それはもう恋愛の日常詠である。
そしてこの歌は一般的には全然共感されないかも知れないし、感動もしないかもしれない。だが、この様子にどこか趣を感じる誰かがこの歌に触れれば、それはオンリーワンなものとして強く心に響くのではないだろうか。
まとめ
題詠歌は技巧的な美しさなども楽しめるが、日常詠は何かほっとするような安心感であったり、小さな発見であったりと、些細な温かみを与えてくれる。
題詠と日常詠による作品の性質の差異はこういったものではないかと私は考える。歌を詠むアプローチの仕方で作品はこう変わるのである。
参考になるサイト
- 恵理人の小屋
- 大伴家持の世界
自分で短歌を詠みたい、という現代において特異な人はこんなので勉強もありだろう。
芭蕉についての記事もあるのでよかったら。