三文 享楽 小説・エッセイ等 広告レス

無料web小説 短編30『目イクロ派』【三文】

2018年1月14日

どうも、三文享楽です。

前回は割と強烈な短編小説を公表いたしました。↓こちらです。

 

下半身の内容も含みわりと強烈ですが、かといってテーマは性が2つでなかったらというものから来るSF的な要素強めです。

とせっかくなので、そっち系な話をまた公開させていただくことにしました。

 

前回のものより強い主張があるわけでも、SF的なものを書きたかったわけでもなく、人の視線を考え詰めていったらできたお話になるのですかね。

いいや、実はこういう世界が来るのではないかなんて思っています。

 

『目イクロ派』

「何見てるの? 私の髪に何かゴミでも付いてる?」

振り向いた女の顔は、まさにそう言っていた。

顔で文句を言われた男は、慌てて目をそらす。

それほど眺めているつもりでもなかったのだが、他のことを考えてぼーっとしているとついつい視点がそこに止まっていたようである。
エスカレーターで前にスカートの女性がいる場合には前を見るな、というのも聞くが前を見るなという方がどうかしている。前に何があろうと、前に進みたければ前を見るはずだ。

男の焦点は相手の顔に定まってはいなかったが、傍から見れば、それは「見ていた」のである。

完全に女は男に対して背を向けていたのに、見ていることに気付いた。ということは、この女も視線感受装置を付けているのだろう。そいつに間違いはない。

そう、視線感受装置なるものが、発明されてしまったのだ。

「最近、一部の人々に超能力を使え透視することのできる人が出てきており、超能力を使われて見られているかを感知できる感受装置が発明されました」

ニュースによる新製品の公表は日本人を震撼させた。

我々の視線の先が見えるようになるということなのである。

目からは目イクロ派という可視光線が出ており、その流れを特殊な受信機械によって察知できるというものであった。

これは、数年前に日本の博士が解明したものだ。博士はこの研究が評価され、ノーベル賞を受賞するまでに至った。

早速、日本企業はこの技術を生かした研究を進めた。

目は口ほどにものを言うという諺(ことわざ)もあるが、日常生活に果たす役割は大きい。

視線研究によって、我々の社会に大きく影響が出始めることとなる。

例えば……。

「お客さん、お会計がまだ済んでいないモノがあるよね?」

「え? え、ああ、会計、ちょっと忘れちゃってたの。すみませんねえ、今払います」

「いや、でもポケットに入れる手つきがすごく慣れていたよね? 周囲の探り方とかすごく上手かったよ。とりあえず、こっちに来てくれるかな」

視線を確認することによって、防犯に大きく貢献されたのである。

犯人と思しき容疑者の一挙一動を刑事は観察する。だが、それだけでは決定的な確証が得られないことも多かった。人は色々なところに目を向ける生物である。だから、ダミーの視線の中にどれだけ真なるものがあるかを探すのかは、難しいものだった。

しかし、視線が見えるようになったら話は違う。だって、視線感知用のディスプレイを向ければ、向けた人間の視線が分かるようになったんだから。

視線感受装置をつければどこのやつがどれだけ自分を見ているか分かるようになる。

そう、誰もが見なくなりだした。下手に見て不要な誤解を持たれてはたまったものではない。相手にしたくないのなら見ないことが最良の手段なのである。

人々は周りの人間を見ないようになった。相手の目を見て話すというコミュニケーションの鉄則は壊滅したようなものである。見ることが目立ち、見ることが自己を統制できない人間のやるような下俗なことになっていったのである。

人のことを見なくたって本は読めるし、映画は観られる。何も見ることを禁じられたわけではない。家族ならばもちろんそれぞれのことを見るし、夫婦ならば見つめるだけで相手をドキドキさせる貴重な性交渉となったのである。

この視線感受装置が開発されて以来、視姦罪法が制定され男は女を見なくなった。

また、女は男を見て変に気があると思われてはならないと、男の方を見ないように心掛けた。誰もが、不用意に誰も見なくなったのだ。

みな、人の他人の姿を見なくなり、テレビや雑誌など見られることを仕事としている人だけが徹底的に見尽くされた。心置きなく見られる他人は、見られることを承知で姿を現した人間だけということなのだ。

でも、物足りなくなってきて、周りの人を見たくなる。

こんなことを言っている相手はどんな顔をしているのだろうか。しかし、万が一誤解されてしまってはどうしよう。相手の女が自分のことを視姦魔か何かだと思ったらどうしよう。相手の男が自分のことを勘違いして接触してきたらどうしよう。ああ、でも、見たい。この先にはどんな人間がいる。この先には何がある。

見たい見たいと、念じることで開眼し、俺は第六の感覚で人を見ることができるようになった。見えないことが我々にある一種の力を与えたのである。

本や映画で人間というものを学び、実際に声や臭いなどから相手のことに考えを膨らませることができるようになったのである。これは元々の頭に蓄えられたデータの中から実経験を元に情報を構築していくものであり、人間を豊かにした。

本来的に言えば、これは妄想ということに大差なかったのだが、情報化が発達した今、人々の妄想力も欠けありもしない世界を頭の中で作り上げていくことの無限性が評価され出したのである。

こんな声なんですもの。きっと厳(いかめ)めしいながらも私のことをよく考えてくれる、王子様なのだわ。

こんな匂いなんだ。きっと僕のことを優しく包み込んでくれるような優しさであり、僕のしてしまうことをなんでも受け止めてくれる女性なんだろう。

人々の異性を思う思いは鬱屈され、やがて文学へと昇華されていった。そう、妄想力は文学系統の人間にとっては、なくてはならないものである。元々文学に縁のないような人間であっても、自身ではどうしようもない劣等さを味わった時、それは自己への信頼を顧みずとも意見を通したくなるものである。

不安定な時代にこそ素晴らしい文学が生まれるとの通り、こうした視界の自由を奪われたような取り決めは他からあらゆる感覚を呼び寄せ、先鋭化された意識を取り戻してきた。

そしてまた、文化が進めばテクノロジー自体も進化するのである。

たとえば、こうした感覚を研ぎ澄ますことになった要因の一つである目イクロ派の研究も深化していき、とんでもないテクノロジーまでもたらした。人によって見られていた人の目イクロ派だが、特殊なコンタクトを目につけるだけで自分の目イクロ派も見えるようになったのだ。

もちろん、目イクロ派が見えるだけでは何の利点もない。自分が見ている先だからそこの延長上に自分の目イクロ派が到達しているだけだ。

しかし、この目イクロ派が意志をもって動かすことができたら? ただの視線の先を表すだけでなく、実態を持ち物に直接触れることができるようになったら?

引き出しを見ていたとする。そこまで到達する目イクロ派がとってをもち、引きだせれば実に便利ではないか。引き出しの中からペンやハサミを目イクロ派がもって来られたら便利ではないか。その便利な世の中になったのである。

一般的に少し前の世の中では念力だとか超能力だとか言われていたようなものである。

自分の離れた所にあるものを浮かせたり動かしたりするのである。

当然に他人の目イクロ派が見える研究がなされていた後にこうした技術が発達したため、誰がその物を動かしたかなど目イクロ派をたどれば判明できた。

しかし、特殊なコンタクトレンズによって見えない目イクロ派も出現したのである。それだけではない。目イクロ派が出ていなければ怪しまれる可能性が高まるために、本当の目イクロ派の他に、ダミーの目イクロ派も飛ばせるようになったのである。

これによって一見一直線上をボオーッと見ているようでも、実は他のところを見て軽く物を動かせるようにまで至ったのである。

つまり、電車の待合所などでカバンを椅子の下に置いている状態で本を読み、隣の人の椅子の下にあるカバンの中身から財布を動かして自分のカバンの中に入れることも可能となったわけである。

しかしまあ、こんな犯罪など理性があれば行われない。所詮、犯罪は犯罪。人の物を盗んではならないという強い気持ちがあればこんな犯罪などくだらないものであった。

理性で押さえつけられないのが、そう、性欲である。

こうした目イクロ派の発達により後を絶たなかったのが、女性のスカートの中身覗きである。

視姦罪法や迷惑防止条例でこうした目イクロ派によるエロ関係の取り締まりがあったにもかかわらず、パンティーを見たいという欲望は抑えられなかったのだ。

電車で座りながらにして隣の女性のスカートの中をさする者まで現れたのである。しかし、誰にもわからない。こうした目イクロ派のやりとりは次第に見えない中で行われるようになりだした。

ここで肝心なのは、目イクロ派は誰にでもある、ということだ。男だろうと女だろうと力の差は関係ないし、物理的なものではないから、接触による病原菌の移動は存在しないのだ。

女性はもしパンツをなでられた場合、近くにいる男性の股間を揉み始めるようになりだした。もちろん、女性も誰にやられたかは分からないわけだし、男性だって誰の目イクロ派で揉まれているのかは分からない。ただ普通に生活していたら、唐突に股間に感触を覚えるのである。

街中で突然射精する者や潮を吹く者が出始めた。

しかし椅子を濡らすわけにもいかない。暗黙のマナーとして人々は立っている状態の物にオルガスムを迎えさせるように気を遣った。

男だってすぐにナマ目イクロ派でやられたい。

あえてスカートを穿く男性まで現れる始末である。

人々は目イクロ派で見知らぬ人間の股間をまさぐりあい、自分の股間まで目イクロ派でいじる物まで現れた。

しかし、これでは性の交渉がないまま性の楽しみが横行し少子化が進むのでではないか。

問題はない。

街にあふれた、人からの溢れた体液の臭いが人々を刺激した。

野菜を連想させるような青臭い匂い、チーズを連想させるような芳醇な香り、こうした他人の垂れ流した体液の匂いに道行く人間は発情し、性交渉も増え始めたのである。

少子化は止まった。

スカートの中身を見たいという根幹的なエロ精神が日本を救った瞬間であった。

 

三文ぼやき

いやあいやいや、少子化対策の話になりましたねえ。

ええ、私の処女作はそんなお話でした。

 

↓こういうのを以前に書いたわけです。

 

少子化対策って、子どもを増やさせるのと、子どもが生まれてからの福祉政策を拡充するのと、どちらがいいのでしょうかね。

 


 

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