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無料web小説 短編32『フロム未来世紀末』【三文】

2018年3月14日

90年代後半の歌って、どうしてこうも破滅的で素晴らしいものが多いのでしょうか。

いえいえ、アニメだってそうです。自分が育ってきたアニメの時代というのもあるかもしれませんが、70年代から80年代にかけて進化し続けたアニメの技術と作品の世界観が完成され、全て終結したのが90年代のアニメなんじゃないかとも勝手に思っています、どうも三文享楽です。

 

いとうせいこう氏の『噂だけの世紀末』という曲が世紀末の現実を物語っているように思えて何度も聴き入っていた時期もありました。

どうして我々は世紀末というだけで、あれほどまでに感情が動いたのでしょうか。茫漠な時間の流れの中でそれは決め事にした時間の単位の一部であり、他の時間軸で生きている者にとっては無関係かもしれなくても、世紀末というだけで、なにかが終結するような感覚がありました。

本当に世界の終わりが来る時、それは時間の単位など関係ないはずだと考えられますが、時間単位の区切りも世界の一新に錯覚してしまうのは我々が心のどこかで変革という刺激を求めているのかもしれないですね。

 

冒頭にネタばらしをするわけにはいかないので、理由は最後に掲載させていただきますが、こちらの作品はほぼ行替え、段落なしのものとなっております。

また、多少、激しい表現もありますために、読みにくさもあるかもしれません。

斜め読みでも、なんとなくの世界観を味わっていただければと思います。

 

『フロム未来世紀末』

悲鳴がした。外では殺し合いが行われている。確認するまでもない。分かりきっていることだ。不景気や新興宗教、それに久々に到来した世紀末ということで、人々はあたかも殺人が合法であるかの錯覚に囚われている。当初は、ニュースでも毎日毎日面白おかしく放送されていたが、視聴者が飽きたのか、殺人事件がそれほど取り上げられなくなっていた。悲鳴が止んだ。また明日の朝、外に出たらやや傷み始めている死体が転がっているのだろう。「また」というのも、今朝も外に出たら、老人の死体が転がっているのを発見したからだ。部屋に戻って一応は警察に通報する。しばらくして作業員がやってきた。警察も捜査が追いつかないらしく、ある程度身分ある者、例えば、どこかの企業の社長さんや役所のお偉方以外は捜査をしないことになっていた。だから、今朝の老人は機械的に処理されている。作業があと少しで終わるというところで、向こうからバイクでやってきた男女数名に、作業員二人は取り囲まれた。二人の作業員は、護身用に携帯していたようなナイフを取り出したが、バイクの女がそれを見て笑った。運転していた男たちは金属バットを所持しており作業員は死んだ。二人とも死んだ。女はまだ笑っていたが、向こうから黒ずくめの車がやってきて銃を乱射し始めると、たちまち顔を強張らせた。運転していた男たちが撃たれると、女は恐怖からかバイクから落ちた。女が腹から血を吹いたところで、僕はカーテンを閉めて部屋の奥に引っ込んだ。見たくないというのもあったが、流れ弾が当たったら迷惑だ、という感情の方が大きかった。窓際にいたら、巻き添えをくったという不幸も多く発生しているらしいし、窓の近くに立っていると、遠くの家からライフルで的当てゲームにされる可能性もあるらしいのだ。そして、部屋の奥でじっとし始めた。そのまま、じっとしている。ニュースではもはや殺人が取り上げられなくなったということだが、実際のところ、視聴者が飽きたのではなく、殺人の取材ができなくなった、という噂もある。現場まで赴いたジャーナリストたちが次々に消え、後釜が追いつかないらしい。気骨のあるジャーナリストほど、早い段階で硝煙に臥すものだ。タチの悪いのでいえば、ジャーナリスト捕縛団体というものがあって、拉致をして首だけ刈り取り遺族に送りつける。なんでも、ジャーナリストには拷問をしても、普通の会社員より耐え抜く力があるらしく、痛めつけること自体に非常に面白味があるようなのだ。それによって、テレビ局が人手不足になり、報道することもできなくなった、というのは納得できる。現にテレビで観ている限りでも、キャスターの半分以上がここ一年で入れ替わっている。あと、昨日から今日にかけて気付いたのだが、製作スタッフの名前が少なくとも毎日一人は変わっている。毎日同じことをやる番組なのに。画面から姿を消せば二度とその名前を観ることはない。それは当たり前か。徐々に、テレビでは古いアニメばっかり流れるようになった。もう何回も観たやつだから飽きた。その飽きたアニメばっかり流れているテレビの横では、僕の母親がずっと泣いている。毛布をかぶり、どうしてこんな世の中になっちゃったのかね、と呟きながら延々と泣いているのだ。僕が、生きていられるだけマシだと怒鳴ると、更に泣く。父親はこの前、撃たれた。近所で撃たれるところを仕事帰りの母親が見つけた。自分の夫が目の前で撃たれたからといって、母親が半狂乱に陥ることはなかった。しっかり駆け足で家まで戻り、車で出かけて行った。なにせ、救急車の到着を待ったら日が暮れる。父親は母親の車で病院に連れていかれたが手遅れだった。というより診てももらえなかった。病気以外は診察すら無駄だ、ということで診断してもらえなかったらしいのだ。それを聞いた母親は、そのことを告げた看護師とその判断をした医者を殺した。逃げ惑う看護婦さえも馬乗りになって殺した。診察室を出ると、待合室でも患者同士が刃物を持ち睨み合っていたので、慌てて帰宅してきたらしい。帰宅したときには、もういつもの状態だった。だが、今になって、そのことを後悔しているらしい。僕がその殺人の話をしようとすると、更に毛布をかぶり悲鳴を上げる。父親の話をしてもそうだ。悲鳴を上げる。あんなに喧嘩をしていたのに、愛でもあったのだろうか。いや、単純に自分や僕を守る人間がいなくなったから、怖くて泣いているだけかもしれない。僕は生きているだけマシとは言ったが、果たして、本当に生きている方がマシなのか。母親はそれ以来仕事に行かなくなった。最初は職場から電話もきていた。僕はその都度、病気で寝込んでいると言ったが、今は電話すら来なくなった。諦めたのだろうか、それとも電話会社の人々がみんな死んだのだろうか。僕もそれ以来あまり外に出ていない。元々、仕事なんてなかったのだから、行くあてもない。この世紀末に新たな社員の採用なんてない。食料が尽きそうになったら、近所のスーパーまで買いにいく。民間の警備会社と結託したらしく、僕みたいなひ弱っぽい人間だけが、見た目で判断されスーパーへ入ることを許可される。女性だろうと筋肉質であれば入店を拒否されるらしく、この前反抗した人が警備員に連れてぶん殴られていた。その後、どこかへ連れて行かれる。弄ばれて殺されるに違いない。あるいは、食べ物を与えて飼い慣らされるのだ。性欲が湧くだけでも、その警備員どもは健康な証拠であろう。まあそんなこんなで、この辺は食料を手にすることができるだけ安全といえるのだろう。いつか買うことすらできなくなるかもしれないが、その時はその時だ。母親と共にこの家で死ぬのだ。近所にいた祖父母も何ヵ月か前に死んでいる。その時も母親は泣いてはいた。だが、暮らせていた。しかし、今は生きる気力すらなくなっているのだ。今日も半分が過ぎた。結局、一歩も外に出ないまま、また一日を終えるのであろう。ところで、僕がどうして平常な精神を保ち、今現在、普通に生き残っているかといえば、楽しみがあるからだ。午前一時から四時頃の頭が冴えている時間帯に僕は時間を超越できるのだ。いや、超越するような気がしているだけか。そう、気がしているに過ぎないんだ。まだ模索の段階。二十世紀や二十一世紀の頃の平和な風景を写真で見ていると心が和む。映像で見ると、この頃から、最近は平和がなくなったとか、不景気だとか、悪徳宗教が蔓延っているだとか言われているが、今と比べれば天国と地獄だ。まだ、この頃には笑いもあった。笑いを求める者と提供する者の需要と供給がしっかりしているだけでもありがたいことだと思う。お笑い芸人という職業があったのも、考えてみればこの時代だけだったような気がする。阿国歌舞伎や狂言師なんていうのも、歴史の授業でやったが、お笑いという文化が特に発展していったのはこの時代だけだ。お笑いを専門とする者たちが、漫才やコントなりを見せて客を楽しませる。笑いが中心となる世界なんてそれこそ、理想郷ではないか。子供の夢のトップ三がスポーツ選手、アーティスト、お笑い芸人といった類いに向くというのは、羨ましい以外の何物でもない。僕はそんな理想郷ばかりを求めているから、この世界で生き抜くことができないのであろうか。時代が過ぎてしまった文化を復活させようとしているから、この時代で生きることすら不可能なのか。しばらくして、また母親が叫び出した。ヒステリーを起こして、テレビの音を最大限にまで上げソファーやストーブを蹴飛ばしているらしい。殺人合法が出る前、まあちょうど僕が高校生時代というのもあるのだろうが、しょっちゅう僕の行動に口出しをしていた。そして、いがみあっていた。僕のする事なす事に批判を下し、自分なりの理想に近づけようとする。それは自分の父親であったり夫であったり、あるいはそれらを反面教師とした理想像である。おそらく、母親からしても自分が腹を痛めて産んだ子供が言うことも聞かずに反抗し、わざと反抗的な態度ばかりとってきたら、怒りたくもなるであろう。育て方を間違えた、と。おそらく、元気に育てられれば反抗的な結果に行き着くのは当然で、健全な証拠といえる。自分で必死に生き抜いていこうと反発するのだ。今になって思う。だが、目的をなくし、夫も息子も離れた今、生きることさえままなくなれば、思考がついていけなくなり爆発するのであろう。発狂して家具に当たり散らすのも分かる。この点、人間が発達してきてから、変化がないようでありがたい。当たり散らす音を聞きつけて、外から変なやつがやってこなければいいが。何かが来た。おお。外では、ようやく先ほどの死体処理の作業員の死体と死体処理の作業員を殺した若者の死体を処理する作業員達がやってきた。警察も捜査が追いつかないらしく、ある程度身分ある者例えばどこかの企業の社長さんや役所のお偉方以外は捜査をしないことになっていたはずだが、同業者が作業中に硝煙に臥したということもあり、念入りに操作を行っていた。僕の家の塀にこびりついた肉片まで、丁寧に専用のヘラを使い、削り落としている。作業があと少しで終わるということで、向こうから乗用車でやってきた男女数名に作業員三人は取り囲まれた。三人の作業員は、護身用に携帯していたような狩猟用の麻酔銃を取り出したが、バイクの女がそれを見て笑った。三人の作業員は運転していた男たちの機関銃で死んだ。三人とも死んだ。女はなおも笑っていたが、更に向こうから宗教団体のような車がやってきて銃を乱射し始めると、たちまち顔を強張らせた。運転していた男たちが撃たれると、女は恐怖からか乗用車の窓から滑り落ちた。女が胸部から血を吹いたところで、僕はカーテンを閉めて部屋の奥に引っ込んだ。見たくないというのもあったが、流れ弾が当たったら迷惑だ、という感情の方が大きい。窓際にいたら、巻き添えをくったという不幸も多く発生しているらしいし、窓の近くに立っていると、遠くの家からライフルで的当てゲームにされる可能性もあるらしいのだ。殺されては困る。例えば、こんな僕にだって友達はいるのだ。そう、ああやって徒党を組んで、合法化されたような殺人を行えるかもしれない。いや、無理だな。僕たちの閉じた人脈では不可能だ。新しくはない、友達。殺人が合法化されるような世界でも、両親が共働きである程度金があるような家では大学に行けた。そういう風潮でこそ学閥というのができやすい。出身学校がステータスを表すようになり、同じもの同士で集まるようになる。大学では高校の偏差値が基準となって、友人の派閥ができた。そして、出身高校の偏差値が人の価値を決めた。僕が下のランクにいた連中を毛嫌いするように上の連中も僕らを蔑んでいた。背伸びしてここまでやってきたと言っていたが、僕らからすれば奴らが堕落して昇れなかったに違いない。だが、僕らだって下の身分の奴らから、そういうふうに言われているに決まっているのだ。徒党を組むのもありかもしれない。そうだ、そうすれば僕らだって、こう引き籠ってめそめそしていなくても済むのかもしれない。ただ、なけなしの金で命をかけて食料を調達し、死を待つ人生なんて。よし。電話はこの家に一台しかない。携帯電話は既に廃止されている。平和だった二十世紀、二十一世紀に比べるとおかしいと考えられる。そもそも一人一つの携帯電話が義務づけられた時点でおかしかったのだ。政府の取り決めにどうして国民は反抗しなかったのだろう。携帯電話が税金によって賄われ、その出費というのも税金から出た。アメリカやカナダのように、国民一人一人に背番号が課され社会保障がしっかりする分、確実に税金がとられるようになる。いやいや、海外に限らない。日本にだって、もう背番号制は普及し、管理されているのだ。一国民一携帯が日本人という製造物を造り上げ、国民を縛りあげていった。国民も馬鹿だ。給付金や手当てが将来の自分たちを苦しめ、さらには当時の少数を逼迫させるのも気付かず、行き詰まった日本の財政革命だという文言に騙されていった。企業は学生運動をする人間を駆逐する。頭の良い産業国家に成り上がった日本人は、自己にとって不利益であり社会を乱してまで行う価値のない学生運動はやらない。自ずとパッと見、理性的な施策に無意味に反抗しなくなる。僅かな学者に従った結果がこれだ。ドイツのおじさんが言っていたように二十、二十一世紀にニヒリズムが到来し、悪あがきした施策が全て裏目に出たのだ。一携帯電話が更に日本人を立派にした。より良い人生に近付こうと努力する。徒党を組むヨーロッパやアフリカ、巨大な南北米は持ち直したが、結局精神だけでも崇高に保とうとした日本人だけがあくまで教科書人間を造る。ゆとり教育を批判することから始まる再詰め込み教育が謳歌し、携帯電話と共に大学から最低就職先確保施策となって日本人を徹底的に管理した。理詰めを追及した結果、誤った殺人合法理論まで出てくる。そりゃ、そうだ。発展を邪魔し、生産性ないものは必要ない。ずっと、管理されてゆとりで泳いでいない優秀人間はそこに行き着くに決まっている。更に精神発展が続き携帯電話は廃止となる。優秀人間製造の過程で、案の定出た副産物がそれを望む。へっ。電話で友達に確認をとろうとしたが電話が繋がらない。民放の一つがジャックされて、強面がたどたどしく原稿を読む。一家に一台となった家電。副産物は何かを考える。もはや、無秩序に悪用されている国民管理制度を解体する必要がある。欧米やアフリカアジア連合達がひっつく中、我々日本は批判され尽くし、聞く耳も持たなくなって破滅を歩むのだ。電話が繋がらなくなったのはどうしてだろうか。電波が光の通信を通るため、回線など必要なくなっている。殺人が横行したとしても、昔みたいに電柱倒壊による断線などあり得ない。いいや、分かっている。分かっているのに、僕が認めようとしないだけだ。電力会社の人間や電話会社職員が消えたのだろう。ここまでくれば、想像も容易につくだろうか。あながち、殺人悦楽集団にやられたと根拠なく推論したところで、間違いではないだろう。殺人哲学が出始めた現代では、もう、殺すに尽きる。どうすれば、より確定的に世界が崩壊するか。どうすれば、世界が立ち直れなくなるか、暗黒から抜けられなくなるまで入り込めるか。まず、マスコミが襲われていく事実があるように批判システムを破壊することだろう。マスコミが一昔前の時代を契機に、協力という影からの弾圧に同調しているとはいえ、他の職種と比べ自身の取材観に屈しない気骨あるものは多い。初めに反抗分子の芽を摘んでおく。なあに、大昔の政府がやっていたことだ。悪どいといっても、政治家は政治家である。資金面で汚かったとしても、国を思う気持ちは、昔から政治家を馬鹿にするだけの国民より強い。軍隊がしっかりしていた頃ならば、政府をのっとるのは軍隊だが、軍隊が制度上排除され無秩序に崩壊し始めた世界では、既存の旧態組織は到底及ばず、乱立した暗殺集団が勝手に立ち上げた一部の悪魔的インテリジェントの匙加減となる。インテリジェントは更なる暗殺集団的な権力を持つ集団が出るのを恐れて、電話会社や電話関連を止めに入ったのだろう。尤も、電気は水道同様に各家庭が準備するゴミ燃却システムで起こせるだろうが。まあ、水素と酸素で爆発により、ゴミを消し、それによるエネルギーで電気を起こし、少量の緊急程度の水を生産するシステムだ。昔から言われているようなエコシステムが日本人の発明により二十一世紀終わりに急激に発達したのが、まだ救いだった。日本発で大量生産なものだから、これは当時何十年かぶりに好景気をもたらした。だが、またすぐに似たようなものを、労働市場が尽きたアジアを捨てアフリカなんかで工場を建て始めたものだから、景気なんかないものだ。すぐにどん底が始まった。二十一世紀と共に、良くも悪くもない不安定なまま進んでいった。どんどん制度は進化し、冷静に見れば、歴史上最高の時代へ向けて。母親が僕を呼んだ気がした。いや、気のせいか。ヒステリーはもうおさまったであろうか。そっとしておいた方がいい。揉みほぐしたり、擦ったりするのもいいが僕の顔を見たら色々刺激してしまうに違いない。救急車さえ、病院の人間が道端で殺害されるのを慮って呼べないのだから。ああ、今じゃ、電話も繋がらなくなってしまい、どうすることもできないのだ。病院へ送るのも命懸けだから、急病イコール死と考えても大差は出ない。どうか、元の状態であって欲しい。友達と連絡をとれなくなった今、すれ違いがあろうとも、味方は母親だけである。外部との情報交信の術が全くない。ああ。どうして考えているのだろう。僕は世界が終わって、なお考えることを止めないのはなぜだろう。やめられない。我ここにありを他人ありき後と認識したにしろ、一度でも存在を認め、そして意識のある限り、考えることを止めることはできない。だから、気を紛らわすためにまた情報を入れる、とでもいうのか。いや、入れるというより通過させるといった表現が近いかもしれない。修行を積んだ達観人でもないのだから、何もしないと邪念がとりまき心肺が疲労する。かといって情報を取り込む余裕などこれっぽっちもない。だから、マンガ、アニメ、ゲームに浸かり、昔のお笑いでも見て他のことに気を向けない限り、煮詰めた思考が吹き出る前に破裂してしまうのだ。ここについては平安、江戸、平成と時代を越えて、いや、どの時代だろうとも、身分を越えて余裕ある身分が行き着く領域なのだ。そうでなければ眠る。それしかないのだ。目が覚めた。さっきよりも外は酷い天気かもしれない。いや、それにしても酷い。昼なのに分厚い雲が空を覆い、太陽の光を一切合財遮っている。だから真っ暗だ。いや、真っ灰色といおうか。一時と比べると、悲鳴が少なくなった気がする。邪魔だという理由を発端に試し斬り、試し撃ち、試し射ち、試し打ちにされた数多お年寄り達がいなくなり、人口は激減している。いらないのなら、いなくなればいい。二十世紀、二十一世紀の教育、あれはおかしかった。高齢社会をあれだけ批判すれば、誰だってお年寄りを嫌悪するに決まっている。自分たちにも将来訪れるを考えていたのか。社会問題に老人増加をあげていれば、老人を間引けばいいという結論に至るに決まっている。姥捨ても古代からあったが人生を生き抜き、社会に感謝し極力余生を楽しもうとする人から、その権利を剥奪することはできないはずだ。そう。老人に触れれば分かる。みんな楽しく生きている。絶滅した老人。高齢社会に挙げられ社会保障費問題等も孕み、一方では電車で席を譲るのが絶対となる完全保護が並行すれば、行き着く矛盾点の解決はその根源を根絶やしにすることになる。隔離すりゃ孤独になる。どう考えても。ただでさえ、余生に不安を覚え面倒をみてくれる安定所を求める。足場は不安定だ。まずは。急に、下の階にいる母親が気になった。確実に僕より先に老人に行き着くのは母親である。近親憎悪があったとしても、結局は信頼で終結してしまう。なにか恩返しはしたか。降りると母親は倒れていた。顔を床につけ、無言のまま身動き一つとらない。愈々をもって、天涯に孤独となったかと思った時、鼾が聞こえた。よくあることだがまあ一先ず安心だ。自分が生き抜くに足手まといになるにしろ、絶対安心をおける味方を失わずに済んだ。何かしてやろう。テレビのディスプレイには、眉を剃り落とし鼻や唇に安全ピンを刺した若者が映っている。目を細めて手元の原稿を見ながらたどたどしくニュースを告げている。どうせテレビに映りたいから、テレビ局に徒党を組んで乗り込み、キャスターごっこをやっているのであろう。精一杯ニュースに近づけようとして、真面目ぶっているのが分かる。だが内容を聞いてみるとひどいものだ。自分の仲間が何人殺しただとか、明日は誰を狙うだとかいったものを、ですます調レベルの敬語で読みあげているのだ。その原稿すらグループ内で一番まともな者が必死に書き上げたものに違いない。カメラを回すことは一応できるらしいが、ピントがずれたり画面がぶれたりと最低ランクの腕前だ。こんなものを観る者がいるのだろうか。意外といるのかもしれない。徒党を組んだ若者が、これを観て作戦を組んでいるのだ、きっと。ん? 銃声がしたかと思うと、画面にいた安全ピンの頭がぶっ飛ぶ映像が入った。その後、背後でも罵声と破裂音が連続し、カメラが天井を向いた。数分後、人物が現れた。警官の制服を纏っている。偽物かと思ったが、正真正銘武装した警察らしい。帽子に手をかけ、かぶりなおすと咳払いをして報道が始まった。「ニュースをご覧の皆様、お見苦しい場面の数々大変失礼しました。このテレビ局から先程ハイジャックされたとの通報があり駆けつけたところ、サバイバルナイフを持った若者十二名が暴れていたため全員射殺しました。若者どもは俺ら警察官に刃向かってきたが、勝てるわきゃねえんだよ、こっちとら何年もこれ専門に訓練してきてるわけだからよ。いいか、これを観ている武装集団ども。人間を平気で殺して助かろうなんて甘い考えもってるならな、片っ端から始末していってやるからよ。首洗って待っとけ、白装束でも揃えてな。お、俺が明日にでも根絶やしにしてやるからな、おい」途中で気が逸れた。結局、自分たちが強く合法的であるアピールをしたいのだろう。もはや、警察かも分からない。なんだかんだ警察だって二十一世紀が一番良かった。軽犯罪を犯す警察官もいたが、みんな信念があった。たまにマスコミに叩かれ、組織を疑われることもあったが、信頼を保とうとする最低限の意志があった。だが、今は信念も正義も何もない。叩きすぎたマスコミとの対立から民間委託となって、利益が見え隠れするのも疑いきれない。そりゃ、信頼第一だから職務全う、報国を叫ぶが国からの補助金をあげることが何よりである。警察組織に血で血を洗う武闘派というイメージがついた時点で、そんな国の治安なんか目に見えている。そんな組織の連中に限って平気で、民間人にも手を出す。もはや、安心など訪れるはずがない。結局は武断と文治は交互に表れざるを得ないのであろう。マスコミに叩かれ過ぎれば破裂し、手が回り多少の横暴もまかり通るようになってしまう。警察組織は事件が起きる時こそ、例えば暴走族跋扈やテロ行為、大災害の指揮にこそ、心の拠り所となるのだろうが、普段は人間であるのだろうし、頼り処を求める民衆だからこそ、人間染みた警察を攻撃したくもなるのだろう。上手くいきにくいものだ。僕は母親がいまだに寝息をかいているのを確認すると、再び階段を上り、部屋に立て籠っていた。外はより人間がいられるような処ではなくなっている。おちおち出られたものではない。本を読むか。いや、そんな気分ではない。こういう時こそ何も考えない、平生では勝手に物事を考えてしまう状態を阻止する考えさせないギャグ漫画やSF小説を読むべきなのだが、頭の芯が熱くなって状況を理解するのに限る。重心がずれていく。小刻みに、手が震えて視界も、いや、壁も揺れている。電気スタンドの紐と音が。そうか。これは間違えなく地震だ。段々と揺れが強くなり始めた。まっすぐにしていられないほどの揺れが伝わってくるではないか。体が床に擦れ、頭がぐらぐら動く。掴まらなければ。ダメだ、立てない。これは相当な揺れだぞ。机の上にある棚からファイル類が落ち始めた。続いて本棚から小説がバタバタ落ちる。旅行用キャリーバックが壁に激突し、洋服がハンガーからとれる。箪笥の引き出しが開いてとにかく本が落ちる。とりあえず、窓が割れることを恐れて布団に頭からもぐった。外に出るべきか? 布団にもぐって、揺れから視界を遠ざけてようやく考えられる状況に入った。あれほどまで考えない状況を望んでいたのに、頭はすっかり真っ白になっていた。そうだ、母親。眠っていたではないか。だが、動けそうにない。頭が痛くなり始めた。とにかく揺れが長く大きい。酔ってきた。まだ何かが落ちているようだ。時計や額の絵、鉛筆削りなどが落ちているらしい。下では食器が割れる音が続く。ああ。終わりだ。フォッサマグナが割れたのだろうか。この前も東南アジアや南米沖で大地震が起きた。今に始まったことではないが日本の地震は歴史的にも何度も何度も爪痕を残しているのだ。早く古期造山帯になれば。活発な地殻活動が収まらない限り、平和は訪れない。町村生き埋めで丸々全滅したり、二次災害の火事で焼け野原と化し、津波に浚われ、引火後の爆発が起きたりすることは過去の類例にいとまがないのだ。どうして定期的にやってくる自然災害の恐怖に怯えない時でさえ、僕らは殺しあっているのか。それこそ堪え忍ぶことなのに。気づくと大きな揺れは止んでいた。家の構造が原因か、まだかすかに揺れが残っている。長かった。布団をはぐと、新雪の朝を迎えるが如く物が床を覆っていた。棚にあった物が全て落ち、落ちたものが落ちた物を破壊している。ファイルは割れ、下敷きになった本は変形している。下敷き。僕は自分の部屋を一通り見回し終えるでもなく、一応急ぐ素振りを見せることすらなく、階段に向かった。食器が全部落ちてはいないか。僕の部屋の本以上に物で溢れているのではないか。足が揺れているのは分かったが、止まる気にもなれなかった。壁がまだ揺れているのか僕に揺れが残って景色を回転させているのか分からないが、足取りは見える様子に等しく覚束ない。長い。長い揺れ。ああ。ドアノブに手をかけた記憶もないのだが、ドアを押し開け一階に辿り着いた。足も捻った。別世界である。案の定、食器が崩れ落ち、お菓子鉢や調味料物の数々が足下に散乱している。誤った殺人合法理論が出現して以来は一度も仕入れておらず、冠婚葬祭すら行われないのだから増えることない陶器類は粉々になって足場を埋める。破片、破片。木の破片が。そういえば、何かおかしい、ぬん。そこにあった箪笥が一つ半壊しているではないか。傾いたまま中の板が歪み、本やリモコンといった雑貨の類いが雪崩れ落ちている。下の部分が折れているのではないか。不自然に傾いたままの一つの家具はもはや戻ることはないのであろう。そこの下には、そう分かっていた。母親だ。僕は急ぐ意思もなく駆け寄った。この棚は直るのか。まあいい、母親だ。そう、埋もれている。どかさなければ。下から折れてしまっているから造り直さないと無理だろう。幸いに、固いものは一つも落ちていない。いや、本だってこの高さからならば相当危険なはずだ。写真立てが一つ割れているではないか。ああ、また買い直さないとだ。駅前のビルに行って、いや、学校帰りのコンビニに行って。そうだ。写真だって撮り直すのがいい。こんな何年も前の旅行に行った時の家族三人ではなく、また行くのもありだ。うん。大学生になったら一度は僕が運転して旅行に連れて行ってやる、と言いながら結局まだ一度も行ってない。いつも父親が。父親が。そうだ、いないのだ。目の前に母親がいる。落ちてきた物で頭を打った可能性は低い。血は出ていない。僕は必死に回りの状況から他のことを考えて気を紛らわせていたが、無意識ながらも介抱をしようとはしていた。だが。起きているのならば、こんな状況で無言のはずがない。眠っているのか? 眠っているのならば、こんな状況で起きないはずながない。降りてきた時には、既に気づいていたのかもしれない。変な静寂、ちらばる破片、食器の破片。ああ、また食器を買ってこなければならない。いや。食器なんかが気になったのではなかった。分かっているはずだ。僕が足を捻りながらも急いで下りてきたのは、天涯唯一の味方である母親の安否が気になったからであった。食器の破片を取り除いて、それらしき姿は見えていた。息もしていないようだった。首に手をやり、脈が確認できないことを確認し、恥らいも捨て胸に耳をやり鼓動音が確認できないことを確認し、誤った殺人合法理論が出回る以前に不良たちに怯えながらも地元の自動車学校で学んだ人工呼吸の方法を思い出して実践し、心臓マッサージもしてみた。他のことを考えようとしながらも、他のことを考えられないことを実感しながらやってみた。だが、横たわった母親の口からは、一声も一息も出ることはなかった。ただ、目を瞑っている。どうしようもない、知っている方法は試した。新しい救助方法を考えようとする感情があったわけでもないが、自分が病気になったら水をよく飲んでいたことを思い出し、慌てたような動きで食器棚の中に残っていたガラスのコップを発見し、散在する破片を避けて水道まで進み、水を入れるや母親の元へ急行した。開かない口に水を流し込んだが、顔を濡らした母親が反応しないことを確認した。向こうで割れる音がした。そちらを向くと、先ほど手にしていたはずのガラスのコップが粉々になっている。どうして、コップが飛んでいるのか? 最初は難しい問題だと思ったが、すぐに僕が無意識のうちに投げたのだ、という答えが出てきた。そうだ、僕らは忘れることができる。それが幸か不幸か分からないが、戦争の恐怖も、戦争の憎しみも、戦争の教えも全て忘れることができる。ならば忘れてみよう。いや、でも忘れる前に眺めてみるか。壊れた壁、ああ、懐かしい。なんでこんなところに、あの写真が落ちているのだろう。若い僕を真ん中に隣に立つ母親と父親。高校生になる俺は仏頂面で映っているが、両隣には穏やかな笑顔があった。そう。これが日常だ。何一つ変わらないではないか。今現在、こうした破片が色々と散乱しているのも、偶々起きたことであって僕もここでこうしているし、偶々息をしていない母親もここでこうしている。偶然、父親はいない。僕は二階に上った。何も言わずに。だって何も変わらない。右足を出して次に左足を出す、という何気ない動作は数時間前と何ら変化なく行われて、僕は行動原理を変えることなく二階に辿り着きそうすれば怖いもの見たさ、いや、生きていることを実感するために、外で起きる殺人を覗き見るに違いないのだ。ほら。最後の一段を踏みしめ、カーテンに手をかける僕がここにいる。おや。おかしい。向こうの方に見慣れない、光景がある。あれもカーテンだ。何だろうか、遠くから白い模様入りのカーテンが迫ってくる。ああ、あれは。ここは向こうより僅かに高台にある。海は遠いはずではないか、という常識的な判断は通用しないかもしれない。そういえば、数週間ほど前に、チリやインドネシア沖で大地震が起きていたではないか。もう地球すら終わりなのだ。迫り狂う、カーテン。そうなのだ、波だ。大きすぎる。もう、終わりなのか。僕はここで何もしないということをするべきか。それか、荷物をまとめるでもなく、偶々息をしていないが普段と変わることなく眠っている母親を起こすべきか。何も考えずにいようと決意したら、僕は何も考えずに窓を開けていた。すぐ近くまでカーテンが来ている。近くのマンションから人が落ちた。懐かしい、殺しをしない人間だ。まだ、いたのだ。ああ、もう遅い。駄目だ。僕の視界を越え、予想以上に高くまで聳え立つ濁った脅威は様々な人生、歴史のかき混ぜ状態でまさに僕の名を呼んだ。沈黙と轟音。浮かぶのだ、とにかく。流されないように。いや。むしろ、む、し、ろ、上に、上に。世界が回り、僕を連れ去る。意外にも成功した。屋根まで出てきた。そこにいるのは先客である。先客は僕を見る。殺すのか? 生き残った僕を殺すのか? ええい、殺すならば殺せ。殺さないのなら殺すな。こいつも巷に出回った誤った殺人合法理論を僕と同じように、謝った殺人合法理論として認識している可能性だってある。向こうも僕と同じ種類の人間で、こちらを気にかけているかもしれない。僕がそいつを殺すと思い、警戒しきって様子を窺うべきなのだろうか。分からない。だが、どの道、僕から何か言うことはないだろう。

外にはサイレンが響き、悲鳴と犯人を追うパトカーからの声が聞こえる。何年か前に今と同じような酒から醒めた午前三時にやってきた世紀末の感覚はホントにやってきてしまった。『フロム未来世紀末』で描き始めた僕の人類破滅の眩惑と恐怖が本当にやってきてしまったのだ。余震が続く。津波に流される家々。胸が痛い。ここは現在世紀末だ。フィクションの大魔境から現実世界に戻れば、そこにも来るべき世紀末はあった。未来は到来したのだ。従来から何度も何度も繰り返されてきた精神の循環なんてものではない。科学や法律、経済以上に発達してきているものがある。八千年も続く人間が産み出したこの精神だ。変わらないものの代表が精神らしい。なるほど、千年も前の文学を参考にすることができる。どれをとっても現在に通ずるのかもしれない。違うかもしれない。確実に深化している。深化していないかもしれない。各々のもつ死への憧れはかつてないほどに多様化し、そして満ちた。甘美で味わい深い死が僕を包み込む。人間は死ななくてもいい。考え方を反転させるだけで、人間は肉体を保持しながら超越し、あらゆる世界を迎えられる。僕の元にも天然の木馬号が到来するかもしれない。世界システムから遠い果てへ連れて行ってくれるのだ。まずは未来世紀末を予知し、頭の中で反転することからだ。

 

三文ぼやき

ということで、ここまでたどり着いていただきありがとうございます。

いやあ、これは僕が数編を同時並行で大量に執筆しまくっていた時期に書いたものですね。この頃はこういう種類のものも書きまくっていて、一番頭がおかしかった時期の様に思えます。

 

最後の段落替えまで現実と虚構をごちゃまぜにし、最終段階で幻想の反転というひっくり返しをしたかったので、このような行替えのない読みにくいものになってしまったのですが、時間軸や現実と虚構の切り替わりということは上手く表現できたように自己満足はしています。

当時私が書きまくっていた作品にはこうしたものが多く、私の処女作である『抜本的少子化対策』もこうした行替えなし表記は多いものでした。カタルシスというわけではありませんが、考えを一息に書き尽くすと、精神が浄化されたような気になるのは、誰にでもあることかもしれません。

 

で、この結果、今の抜け殻が、僕なんだよ。

ぺぺぺー。

長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。


 

↓精神が荒れている時には胃腸も荒れています。

↓そして体が冷え切っているのです。注意してください。

↓でも食べないのは良くないので、こちらでもどうぞ。