冒頭
観客が二人いた。
見違えるほど変わってしまった観客達。
その後ろで後頭部を執拗にスケッチする猿がいる。
見た目以上にその二人と後ろの猿は近しい関係だった。投げられた石と、石を投げた人間のような関係だ。猿が石を投げれば、観客二人は石として投げられるのである。
クライマックス
そのとき、渾身の石が投げられた。石は、観客達が見ていたスクリーンへと向かっていった。徐々に加速する石、視線を後頭部へと見やる猿、希望に満ちた顔の観客二人。石はスクリーンを突き破った。
光を浴びる石。広がる景色。目を丸くする観客二人。
観客二人は素晴らしい景色を目の当たりにしたのだ。夢中になっていたスクリーンの先にあるこの世界を彼らは知らなかったのだ。石は落ちていった。失速。
からん
観客二人は崩れ落ちる。地べたに頭を打つ。そしてスクリーンを思い出す。あそこは夢だったと。スクリーンを夢中で見ていたとき、観客二人は夢の中にいたのであった。押し寄せる後悔の念からか、地べたに頭を擦り付け、嗚咽する。
それを見ている者がいた。
結末
猿はずっと、そしていつまでも、後頭部を見ていた。
単調なあとがき
眠気が私を襲っていた。何か書かなくてはならない。なにせ私は昨夜も、何も執筆せずに眠りに就いてしまっていたのだから。二日も記事を書かなければ、習慣化したこの執筆活動から離れてしまいかねない。それは避けなくてはならない。
私はそう思い立ち、筆を持つ。正確にはキーボードの上に手を置いた。
世の中に決まりなどない。何を書いたって構いはしないのだ。そう思い、私は思うが侭に筆を振るった。正確にはキーボードを叩いた。
出来上がったのはなんだったか。これである。
意味深なことを並べ立てるのはストレスが解消されるものだということはわかった。意味深な言葉、関係性を文章の中に生み出し、メッセージ性などほぼないにも関わらず、したり顔で締めくくった文章。
書く側はスッキリして、読む側も何かの間違いで深いことを考えてしまってくれればお互い得しかない。
しばらく私はこのブログに謎の文章、意味不明な短編もどき、役には立たないが理論だった文章、そのどれをも書いてこなかった。少々読者が増えた弊害である。
久しぶりに私は適当なことを意味深に書いたのであり、そしてこれは快挙の一歩手前である。ほんの少しだけメッセージ性も込めたが、本当に僅かなものである。そして、こんなんで読み取ってもらおうとしているのであれば、相当のコミュ障でもある。つまり、やはりこの記事は意味深なだけなのである。
そして意味深は永遠に延長できる。中身のない短編もどきのこの記事への言及であるこのあとがきを、ここまで長ったらしく書くことができている。その事実からもそのことは簡単に想像が付くだろう。
とにかく、この記事は眠気に襲われた私が眠気と闘い、そして常識的な頭をほぼ使わずに書いた結果できたものである。もはや、どうしようもない精神活動の副産物のような記事だ。
だが、こういった無意味と思われることを延々と書いても生み出せるものもある。無に無を重ね続けていくと面白くなるケースがあるということだ。そしてうまくいけばどこか哲学的にすらなる。
果たしてこの記事が面白いのか、そして哲学的なのか、それは各々で判断して頂きたい。下手すればこの記事によって読者が減るか、管理人は気持ち悪い、と思われることになるが、そうなったらまたお役立ち記事でも書くことだろう。
だが、私は役に立たない記事も世に必要だと思っている。役に立つ記事は情報が合っていれば、書いている人間なんぞはどうでもよいものだ。
さて。というわけで、最後に一つ言いたいことがある。非常に役に立たないことである。
これは、全て歌ではありません。