通学に通勤、通ラーメン。
日々電車に揺られ、人の数ほど、そこで生まれた哲学をもつと思います。
電車の中、そこは哲学の場であり、勉強の場であり、睡眠の場であり、飲食の場であり、化粧の場であるわけです。
どうも、電車の中では常に腹痛と戦っていた三文享楽です。
都内の人って、意外にトイレ付き電車の存在を知らないんですよね。
『座られない空席』
ジョーは混雑電車が嫌いだった。
人混み、暑苦しさはそれほど嫌にはならない。ジョーに嫌悪感をもたせているのは、座席を奪い合う人間の浅ましさであった。
電車に乗るや否や、空いている座席がないか辺りを見回し、空いている座席のないことを確認すると今度は目の前の人間が少しでも早く降りることを祈りながら座席の前に仁王立ちし、次の駅に到着する間際ともなれば少しでも降りる素振りを見せた者へ圧力をかけ始める。
降りる気配を見せたものの降りなかった乗客へは、遠慮ない舌打ち攻撃だ。
観察すればするほど見えてくる人間の小さな小競り合いに、ジョーは呆れていた。
その日、始発駅を最寄りとするジョーは、座席に腰掛け読書をしていた。
朝方だったので、三駅目を通過する頃には座席がほぼ埋まり、空席は各車両に一つや二つ程度しか見られなくなってきていた。
四駅目に停まった際、ジョーの斜め前にも人が立った。
隣のおばさんは座席の予約をされたのである。
通常、電車の座席における暗黙のルールとして、空席ができれば前に立っている者が座る。前に立っている者がいなければ、斜め前、向かい側、斜向かいと優先順位が変化していく。それより遠くならば、早い者勝ちだ。
五駅目が過ぎ、ジョーの右斜め前に人が立った。
隣の女子大生がターゲットにされた模様だ。
向かい側の左前にもおじさんが立つ。
おじさんにロックオンされたのもまたおじさんである。
いい調子である。
ジョーは興奮していた。
実はここ最近のジョーには、とある趣味があった。
それは電車に乗っている時にしかできない高尚な趣味である。
自分の前に人が立たず第一順位の予約がされなかった場合、ジョーはわざと席を立つのである。
ジョーは席を立っても降りない。まだ同じ車両に乗ったままだ。
では、なぜ立つか。
それは人間の醜さを観察したいからである。
ジョーの目の前に誰も立たず第一順位の予約がなかった場合、第二、第三順位の予約者たちがいっせいに座席へ群がる。ただ座るという行為だけなのに目の色を変えて席を奪い合うバカな人間を観察するのが大好きなのであった。
やつらが立っていた場所には黒い液体が流れているようである。座っている人間の一挙手一動足に至るまで観察し席を狙う執念深さ。欲望を満たすために周囲を嗅ぎ廻るその姿は、黒い液体の固まりのようであった。
六駅が過ぎ、向かいの右前、向かいの前にも人間が立つ。目の前の第一順位予約場所を抜かした第二、第三順位の予約五カ所が埋まったのである。
条件はそろった!
格好の状況である。次の駅に着く前にジョーは降りる素振りを見せることにした。
その前に自分がいたこの座席へ群がるおこぼれバカどもの顔や後ろ姿を見渡す。
知らんぷりしている風を装っているが、どうせ考えていることはいつ座れるかということだけだろう。くだらない、とるにたらないやつらだろう。
本を読んでいるふりをしていたところで、視界の端ではチラチラ空きそうな座席を探し、背中でも人が立つ気配を窺っているに違いない。
ジョーは、右前のおばさんがこの席を奪い取るだろう、という予想をしてカバンをいじり始めた。手にしていた本をしまうのは降りる行為のアピール、というよりも周知、発言である。
「えー、間もなく……」
よし、着く。タイミングは今だ。
ジョーは小声で「すみません」と呟き、どいてもらうことに対して会釈をしながら、席を立った。
去り際に不自然さはなかったであろう。
ふふふ、さあ、さぐりあいを始めろ。誰がこの座席をとるのか、とバカみたいに考え始めるのだ。
ジョーは躁状態になった。
はあ、まだ降りないのに席を放棄し観察する俺様。きもちいいねえ。浅ましいバカな人間どもめ、黒い液体をぶちまけながら動きだせ。お前らは薄汚れているのだ。
ジョーはドア近くまでいき、回れ右をした。
自分のいた座席が見える。
さあ、答えはどうだ。俺に一番浅ましかった主を教えてくれ。
数秒が数分にも思えた。
誰がその席をつかむか、一瞬のうちに意識が座席へ向かう感情のやりとりを思うと心が踊った。
一分が立ったかもしれない。
もう七駅目に着く。
なぜ、誰も座らないのだ!
今座らなければ、新たに乗車してきた座席バカどもに席を奪われるぞ! やつらは、座れればそれだけでいいと思っている、倫理観の欠片もないような生き物だぞ!
座席が空いたまま、一分が過ぎた。
バカだ!
どいつもこいつもバカだ。空いている座席があるというのに、浅ましい。
ジョーのすぐ近くにあるドアが開き、乗客が雪崩れ込んできた。
さあ、座れ。心置きなくあの座席をとるために飛び込んでいくのだ。いっさいの考えも持たず、光に飛び込んでいく羽蟻のように群がっていくのだ。席が空いたにもかかわらず、漫然とそれを見逃してしまうようなやつらにくれてやる席など一つもないんだぞ。
しかし。
動きはなかった。
なぜだ。なぜ、誰も座らないのだ。他の座席は人の入れ替えがあるというのに、俺のいた場所には誰も座らない。
ドアが閉まる寸前、一人の男が乗ってきた。男は一瞬ジョーと目を合わせたようだった。
「あーあ、またこの人いるよ。座席が汚れちゃってしょうがないよ。浅ましい」
しばらくジョーは男の言っている意味が分からなかった。まさか、自分に対して発言されたものとは思いもしなかったのだ。
駅を発車し震動が伝わってきた時、ジョーは何人かがこちらを見ているのに気づいた。
いや、何人かどころではない。この車両に乗っている全ての乗客が自分を見ているようであった。
それにはジョーがいた座席の第二、第三予約者たちも含まれている。
その時、ジョーの頭には先程耳に残された言葉の再生が始まった。
「またこの人……」
「座席が汚れ……」
「浅ましい……」
ふと、ジョーは自分の体から何かが滴り落ちるのを感じた。
いや、まさか。
滴り落ちた先を見るよりも前にジョーは先程まで自分がいた座席を見た。
まさか……俺自身がそうだったとは。
ジョーの視線の先には黒く汚れた座席が一つあった。
座られないなら、どうせ明日も来ませんよ
別に明日来なくていいや。笑い島にでも行けたら