前回の小説配信では、長編小説『歴史の海 鴻巣店編』を投稿いたしました。
次は、中編小説かなくらいに思っていたのですが、お笑いの記事を投稿したら、またお笑い的な気持ちになってしまい、結局、表題にある長編小説『笑い島』を連載させていただくことにしました。全20回の連載となります。(現在すでに連載完了しています。)
これも小説10編を携えて出版社に行った作品の一つです。
ユートピア小説と呼ばれるジャンルを読み漁っていた際に、自分流のユートピアとは何か。抜け出したいこんな世界から抜け出してもいい落ち着く世界は何か。これらだけを考えて書いていました。書いている間に私はこの世界に存在せず、気持ちいい日でした。
まあ、ごちゃごちゃ言わんと、読んでいただきますか。
現在、すでに連載終了済みなので、すべての『笑い島』へのリンクを記載します。
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『笑い島』1
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それどころではない。
でも、やっぱり初めての沖縄だったので行ってみたかったというのもある。
旅行会社で見た冊子に載っている熱帯魚で溢れるマリンブルー、日本屈指の水族館、沖縄県独自の歴史的建造物等々と僕の興味を掻きたてた観光地たちが非常事態であるはずの僕の脳内に浮かび上がってきて止まない。更にはゴーヤチャンプルー、ソーミンチャンプルー、それに沖縄そばといった食事面からの誘いもなかなか強く居座っている。とにかくこの細々とした本州、それにせせこましさを感染させられてしまったと思われる九州、四国、北海道を離れて遠い南国の楽園というものを訪れてみたかったのだ。
行きたかったなあ。
だが、
いくらこの状況で沖縄への幻想を思い描いたところでどうすることもできない。沖縄へ行くことができるかを考える以前に明日、いや小一時間といったすぐ近くの未来を迎えられるかさえ分からない状況なのだ。
荒波に体を持っていかれながらも必死で板につかまって肩から上だけでもうねり狂う波の上に出そうとする。この板から手を離したら間違いなく終わりだ。そうだ。この板から手を離したら間違いなく終わりなのだ。唱えて念じたところで聳え立つような波がやってくる度に体は呑み込まれ傾き、どこまでも続く海底の常闇に下半身が吸い込まれていく。
座礁したのである。
まあ、格安の船旅だったしな。
いやいやいや、
値段が安かったらそれだけ座礁してもいいと妥協できる気持になるわけではない。
思い出してみるに添乗員がどうにも形容しがたくとんでもない顔で登場してきて船の縁から縁を往復し始めるや間もなくマストにも届くレベルの大波が船全体を覆い一発で船を横転させたのだった。てか、通信手段の発達したこの御時勢にこんな大嵐が来るというのも分からず出港するものだろうか。そうなってくると、格安だったしなと納得する以外にないかな。そういうことにしよう。
横転していく最中に次々と大量の人間が落下していった。落下していったと客観に留まるのでなく僕自身例外にならず、どうにか沈み切らずに浮き上がってきて近くにあったこのどこかの破片であるかも分からないぼろ板につかまることができたのである。
そうして、
ここに、こう、浮かんでいる。
ああ、あーああ
こんなときでも沖縄そばに乗った豚の角煮を思い浮かべる僕は頭がおかしいのであろうか。沖縄そば、ゴーヤチャンプルー、ソーミンチャンプルー、あーあ
二、三メートルの波が肩から上に見えたとき、意気込むでもなくしがみついた。
呑まれたと思った直後から意識が遠退いていくのを感じた。
…………
……
……
……長い長い眠り。
時間が経過しているのは分かる。
……ただ、
ただ、ある。いや、ある。
僕、僕だ。
どこだいたい、痛い痛い、何かがチクリとささる……これは、一体。
ハッ
目が開いた。
陽射しだ。青空には直視できないほど確然たる光を放つ太陽がただ燦然とあって僕はそれを仰向けの格好で眺めている。ここには体……ああ、体。僕の体がここにはあって、やはり仄暗い海の底ともつながっているであろう海の水に浸り、胸から上だけが、どこかに……砂浜か。確認できないが、この感触、頭の沈み具合、間違いはない。砂浜に打ち上げられたようである。
長い間海水に浸り濃塩に体全体を浸していたせいか、大気中に剥き出しになっている顔や胸部が未だ海水にある下半身と別の生き物のように感じる。酸素が痛い……わけでもないのだが、酸性が強いといった中途半端にかじった古い科学の記憶が動く気配も見せない思考の止まった僕の頭で我主張をしている。だが止まった思考回路へのアピール効果もない。僕の体は動く気配を一向に見せないし、それを実行に移すかを考える気すら起こさないのだ。戦争を煽っていた者の主張を敗戦後誰も相手にしたくないような感情に近いのであろうか。結局、小中高と蓄えられていった科学の知識は船の転覆が起きた際どういった行動をとるべきかという危機的状況で俊敏な判断ができるといったことに役立つことなく、むしろその過程で培われた抑圧された本能による鬱勃たる衝動だけを養うことに効果を齎し僕を船に乗せられたということになる。
頭の中で実際には酸素が痛いはずなどないのだと否定したところで酸素は僕の肩のつけ根あたりを刺すことを止めない……痛いはずないというのに……ピンポイントで痛い、いや痛いはずがないというのに……痛い。ついでに陽射しも痛い。これが痛みを味わったことのないもやしっ子の常識が覆るといったようなものなのだろうか。理不尽だ。もやもやとした考えだけが空情報以外の情報を取り入れようとしない身体の司令室を蠢く。
首が動いた。それまでまるで動かし方、いや、動かすことによる結果や因果関係を忘れたように機能停止していた首が意識することなく反射的に動いたのだ。生物の本能というやつか。これだけ死の境界にいた僕を内なる生命力は生かそうとしているのか。
何がある。
いや、いるのか? 太陽の光を背に負って逆光になった……人?
「人間だよな」
そう聞こえた。僕はまだ記憶を失うことなく存在しているのだろうか。人間性を離れた海で生きるか死ぬかを彷徨っていた生物を言語という文明が人間に引き戻した。
だが、それが質問なのか、どう答えるべきかを考えるでもなく、いや、助けを求めたり、状況を確認したりするでもなく僕はただ目の前にあるもの、人間を網膜に映していた。
青年か、僕と同じくらいのその男は一言発した後に二の句を継ぐでもなくただじっと僕を眺めている。ちらちら動く物体、枝か。枝。そういえば、この感触か? 先程まで僕をつついていたとも思われる枝を手に、僕が反応してからというものの身動き一つとらない。
「おおい、ネタ合わせしながらって言っただろ」
聞き取れるものだ。唐突に話しかけられたとしたらたとえ近くの人間であったとしても用意ができていないために頭へ入ってこないことはあるが、長い間情報を絶っていた今、新情報を体が無意識に受け入れる。
視界を占領するこの若い男は相変わらず、地球には本来あるべきではない生き物でも発見してしまったかの如くである目の色で僕に釘付けとなっている。僕は僕でそちらを見ていることによって日陰になって目に負担がかからないということや首を動かす必要がないから楽という体に宿る本能が発見してしまった利点だけで見つめ返している。
向こうで叫んだ男声は姿こそ見えていないがこちらへ近付いてきている気配だけは確認できる。あながち台詞を投げかけた対象は文字通り目の前にいるこれであろう。
「何、ぼおっとしているの。人間が沸いて出てきたとかみたいな顔して」
男声がなおも接近してきている。砂浜に近づいているであろうその足音は吸収されているが、風は動き声が大きくなってくる。視界の対象物はやはり焦点をずらさない。
「おいっ、てば。え?」
声が少し止まる。
「あ、あれ、え? 本当に人間が沸いたのか、え、それ、誰だ」
少し暗くなった。
視界に入ることなく新たな登場人物は僕の上半身の近くに立ったようである。何かが近付いてくる気配も止まった。質問の答えを待つというより明らかに僕という対象を確認した故に言葉が出てこないように感じられる。
「これ、人間だよね」
「んん、ん」
今まであった顔の隣にまた新たな顔が並ぶ。古顔よりも長細く、彫りが深い。ただ共通するのは目を皿のようにして口を半開きにする、基本的な驚きの表情だ。
口を動かす必要もなく内なる生命力が反射的操作もしないようなので、僕の視点は新顔の目の動きに合っている。半開きの口では舌が動いているのか分かる。
「流れて、きたのか」
「うん、たぶん」
対象物の人間二人は視点を僕からずらすことなく、唇だけを動かし会話を続けている。僕は船から落ちてしまったと言った。言ったものの、声として言の葉にならなかったというだけである。身の危険を察し回避しようと、体が動く力は残っているようであるが、発声という文明人に与えられた技術の使用は体力の消耗が許さなかった。
もごもごとよく分からない音だけは発した気がする。
「とりあえず、これは一大事だな、絶対」
僕の発した音を聞いたか、新顔は視界から消えて、太陽の影だけを作って消えた。影も一つに戻った。先ほどとは違い、砂浜を蹴る音が聞こえた気がする。
また、一人分の同じ沈黙がやってくる。
「元気?」
残った古顔がまた訊いてきた。
それを受けた同じような音をまた発したと思う。
言おうとしても発生することができない。
この状況でよくそれを訊けるなと僕が疑ったように、こいつも外国人か何かと僕を自分と違う国の人間、あるいは非文明人などと疑ったであろう。質問に応答した後はまたさっきまでと同じように見えている。
木に見えるロゴが入った白いティシャツにクリーム色の半ズボンで、中腰になって動くことはない。右手に握られていた木の棒は後からやってきた男が立ち去って本当にすぐ捨てられた。視界にないのだから波にもっていかれたのかもしれない。右手と左手で自分のサンダルを押さえて、念入りに僕を見えているのだ。
色は水色だが、同じようにティシャツを着ている僕はジーンズの長いのを穿いて、靴も靴下も浸っている。上半身の感覚が育った記憶を叫び戻すのか、僕を水中に誘おうとするよりもむしろ、水に嫌悪感を持たせ、地上に早くあがらせようと僕の脳はまわりだした。
そこまで考えがまわってくると、この状況において、助けようともせず、じっと傍観しているこの青年か少年も、何を言うでもなくただそれを眺め返す僕自身も変に思えてくる。
水浸しになってもなおも硬いジーンズにあたるふやけた性器の感触や大気と水の表面の違和感を訴える腕からの信号が僕に力を与え始めた。
不快だ。
彷徨った揚げ句、冥途で引き返したというのに生に戻ればより快適な状況を求めてくる。陽射しが弱まることはない。直視することはできないが、地面という水平から仰ぎ見るに現在一番高い位置に太陽があるようだ。
いや、首が傾いたではないか。差し迫る状況でもないというのに、周辺状況を確認するがために、首が。わずかに砂が飛んできたため、振り向けば尻まで砂についた姿勢で今度は眺めている。
「どうして、ここにたどり着いたの?」
しゃがんだ姿勢からの体育座りになって声も幾分か離れている。
「沖縄に行く途中、船が波に呑まれて」
どれだけ聞き取れる声として発声できているのかは分からない。ただ先程までの呻き声と違って声になっているような趣はある、あくまで主観ではあるが。自分の外耳でもそれを意味あるものとして何となく捉えることはできた。
「大学生?」
「うん」
「大学っていうのは楽しい?」
会話が続いているのだから、僕の声は届いているのだろう。尤も、声にしたと思われるここに辿り着いた理由に関する反応がないのだから届いたと思われるのは妄想であって、今の会話で発信した頷きだけしか届いていない可能性も大いにある。だが、最後の質問に答えられなかったのは発声の不能ではなく単に相応しい答えが出なかったからである。
「ここは、ぷっ」
(続く)