三文 享楽 小説・エッセイ等

無料web小説 短編4『胎マン』【三文】

2016年3月31日

PAK88_manganotana20141108161323_TP_V1[1]

かつてマンガ喫茶の住人となっていた三文享楽です。

MANBOO!、ゲラゲラ、自遊空間、快活CLUBをはじめ、チェーン店なのか分からない小さな店まで会員カードを作り、入り浸っていました。そう、あそこは原点。たくさんの物語に囲まれているのです。

で、また出た後のラーメン屋がたまらないんですよね。

 

【過去のショートショート】

ハエトリ草』『前科アリの人々』『ブーツのために


『胎マン』

ヒデを中心点として周囲に堆(うずたか)く積まれたマンガ本は、いくら読んだって尽きない。読む分だけでなく読もうと思うもの全てを手の届く範囲へ並べ、養分を吸い続ける。

「すみません、注文ですが、おつまみポテトとねぎみそラーメンください」

店舗にもよるが、ここでは個室に設置された電話一本で食べ物も飲み物も供給される。

「あー、餃子とチャーハンがキャンペーン中だったのか。いいや、また後で頼もう」

昼食や夕食の区別もなく、軽食なり食事なり、食べたい時に食べたい分だけ注文すれば、それが食えるのだ。

ヒデは仕事の休み、土日のほとんどをマンガ喫茶で過ごしていた。

十二時間パックを、終電を逃がした際のホテル代わりのみに使うのは邪道である。ホンモノは昼間に入店し、日中活動時間をガッツリこの空間につぎ込むべきなのだ。

ヒデは、時間数にして、七日分の一日分の時間をまるまる注ぎ込んでいた。いや、正確に言えば、それは土日を費やした最低時間数であって、平日のうち週二回近くは夜の仕事帰りにも訪れていた。まれに夜帰らず、直接出勤することすらある。

マンガ喫茶という空間は日常であった。

いや、それ以上の掛け替えのないものかもしれない。

「お待たせいたしました。ご注文の品になります」

自ら動き、苦労して奪い取る必要はない。

あるがまま、供給されるシステムを利用し享受し続ける。

まるで胎盤だ。

ヒデは外敵が排除された絶対的なこの空間を至上のものとし、安定供給が約束された胎盤に思えてならなかった。

「ここで、大きく立派になるまで、成長するのよ」

亜空間で見守る母は、ヒデに対し愛のメッセージを送り続けた。

感受性豊かなヒデもそのメッセージに応え、マンガの大量摂取をし続けた。

一日の十二時間コースのうちに、五十冊以上は読んだ。時に同じマンガを読み返すこともあったが、基本的には新しいマンガを選び、年間に五千冊以上を読んだ。

世の中にこれほどまでのマンガが存在するかという驚きや読んでも読んでも決して尽きることなく発行され続けるサブカルチャーの勢いに、ヒデは完全に呑み込まれていた。

マンガ喫茶の個室だけでない。マンガ自体が女だ。

小説と違い難解なスタイルで俺を拒むことはない。いつだって優しく、それでいて奥深い世界へいざなってくれる。敏感な表情の変化はその些細な動きだけで読者を興奮させるし、描かれたペンのタッチ一つでエクスタシーの迎え方がまるで違う。

しっとりとマンガに包み込まれた。

この個室を取り囲むマンガの棚に、呑み込まれている。ここから出たくない。温かい。

ヒデはマンガの虜となり、来る日も来る日もマンガを吸収した。

SF、バトル、歴史、ギャング、スポーツ、恋愛、グルメとこの世の中に存在する事象のありとあらゆる物語を体内に摂り込んだ。設定の中で生き抜く登場人物達には、各々の個性があり、似た個性があっても完全一致な個性など一つもなかった。

分化していく設定と状況の数々、どれにもドラマが生まれ、一人の一生にして数万を生き続ける感覚は、とてもじゃないが現実社会で生活をしようなどという気を起こさせなかった。

世の中の出来事は全てここへやってくる。

この胎盤の中で、下界で起こるドラマ全てを味わえ、外部へ出る必要など少しもないのだ。

働き始めてから五年が過ぎていた。

マンガ喫茶に特に入り浸るようになったのは、就職とほぼ同時期である。

その間にも、読むスピードは益々加速し、五年のうちに三万冊は読んだ。生まれてから大学卒業までに読んだ分を合計すれば、五万冊近くにまで達するかもしれない。

通う店舗の読むマンガがなくなれば、また次の店舗を本拠地とし、絶版となった過去のマンガも万遍なく読み尽くした。

しかし、ヒデはあることに気付いていた。

ここ最近、マンガが漏れだしているのである。

マンガを読むためには、どうしても生活を行わなければならない。世の中には、動画のアップで稼いだり、親の仕送りや生活保護を不正に受給したりして生計を立てる人間もいるようだが、ヒデはケチをつけられずにマンガを読めるよう最低限の基準を持っていた。

働かないことはないが、目立ちたくない。

職場の人間関係は文句を言われない最低限に抑える。飲み会に誘われて参加しなければ誰だって誘った方は普通気分を悪くするだろう。誘われれば参加する。頻度が高く誘われ続けると、親の病気ということで断る。

反感を買わない最低限度で、人間付き合いを処理していた。

そこで、である。

そこでヒデの蓄えられているマンガが漏れているのである。

極力深入りをしないように心掛けている人間関係だが、最低限の会話をすれば最低限の個性が知られる。個人を分かりあうために行われる飲み会だから、最低限の自分自身の情報が漏れるのはやむを得ない。

マンガ喫茶へ引き籠るというオタクキャラを認識させるようなことを暴露することはなかったが、マンガを多少読むという告白から、成り行きの会話によりいかなるマンガも読んでいることが明白となってきて、同僚の目も変わってきた。

子どもの頃は真剣に読んでいたマンガの話をする上司からの受け答えにも、リアルタイムで読み続けるヒデは常に的確なリアクションをとり、人間誰もがもつ共通文学の一体感のような物を持たれ、一種の信頼関係が生まれたのだ。

元々、どうしようもなかった人間ではない。

常識の蓄積量は若年者に相応の量であったし、現実世界では怒りの感情すら生まれない乾ききった性格のため同僚にミスを指摘されても腐ることなく淡々と事務をこなしていた。

他を抜きんでない現状維持の人間に、プラスアルファでマンガの神というキャラ設定が生まれれば黒い感情をもったことのある人間からのウケは往々にして良い。

ヒデはマンガ喫茶の個室の中で、職場のことを思い出すようになってしまった。

数年前は現実世界で何が起きようとも、この胎盤の中においては記憶が流れることすらなかったのに、ここ一カ月は自分の発言で笑いが取れたもの、褒められた類の会話を他の時間に「思い出す」ということが起きてしまったのである。

自分は乾燥した人間である。

写真やアルバムはない。懐古するのは、読んだマンガの内容だけ。マンガを読むためだけに生き、自分自身が評価されようが陰で悪口を言われようが、どうだってよかった。

それなのに、あろうことかマンガ喫茶にいる時にマンガ以外のことを思い出してしまうのである。忘れようとすればするほど、コミュニケーションが上手くとれたときのことを思い出してしまう。

「です……ふぁーあ」

自分の言ったセリフを思い出し、思わず独り言で漏れてしまった恥かしさを紛らわすためにあくびでごまかす。

あくびのついでに全身の伸びをして、同じ姿勢で硬直した筋肉をほぐす。

「あ」

リクライニング椅子の隣に積んであったグルメ漫画群に脚がぶつかり倒壊した。

隣の個室の壁に少し響いてしまい、故意でなかったことを示すために舌打ちをしてマンガ棚へ片しにいく。

目隠し用に引き戸へかけてある毛布をとり、長居時にはかかせない店のスリッパをはく。

同時にこの空間が窮屈になり、自分には狭くなっていることも了解していた。

マンガを読む自分は受身だけ、ひたすら供給されるのみ。

それを考えてしまったヒデは自己嫌悪に浸った。

そんなことは何年も前から分かっている。受身だけ、という悪者視される言葉は何年も前から自分につきまとい、一層マンガに引き籠らせることに拍車をかけていた。

大学時代にそれを打破するために行動し、何度傷ついたことか。

生まれたからには死ぬまで生き、最低限の生活を行い、マンガだけ読んでいればいいのである。就職したからには、後はやりすごす以外に何もすることはない。

しかし、自分は今五万冊のマンガを読み尽くした。これはスゴいことなのではないか? 人に自ら誇ることはなくても、マンガ好きが高じてここまで到達した一極集中の成果を認識くらいはすべきなのではないか。

何度か思っていたことだが、少し考え始めると止まらなかった。

コップに入っていたメロンソーダを飲んだが、飲み飽きた味がして元の場所に戻した。

俺はこうしているだけなのか。プレーヤーとなって動き出さないのか。これだけのマンガを読んで、何も感じないのか。自分自身が主人公となって物語を作っていこうとは思わないのか。

止めていた感情が一気に溢れ出すようであった。

出たい、出たい出たい。

俺はいつまでもここにいる人間じゃないんだ。

早く次なる新しい世界を見つけるのだ。

パック料金の前払いで入店していたヒデだったが、出店予定時刻の三時間前に外に出た。

日中の太陽は眩しく、なかなか周りの景色が見えなかった。

「はっきゅしゅん」

思わず出たくしゃみも新しい空気を吸うために、栓を排出した産声と同じようであった。

排気ガスやラーメン屋の臭いも含めてそこには現実があった。

目の前を通った女の香水の匂いも今までは存在しなかったものである。

ヒデは歩いた。

世の中が新鮮で新しい場所に思えた。

自分はプレーヤーだ。身体を得て、自分の意思で動かしている。

意気揚々と歩いたヒデであったが、人間の出入りが激しい建造物を見つけた。

最初はなにか分からなかったが、高校時代に何度か行ったことのあるものであった。

「しばらく行ってないな。ここなら俺の求めていた新しい世界があるかもしれない」

ヒデは一歩一歩をかみしめながら、建物の中に入った。自分の意思で主体的に行動することがここまで頼もしいことだとは思えないようだった。

「ここだ。見つけたぞ、俺が活躍する新しい世界だ」

ヒデはその日に上映していた映画を三本立て続けに観た。

ヒデの世界は広がり続ける。


 

他の短編小説もどうぞ