シリーズ『笑い島』はじめ、三文享楽は現実逃避行のことばかり考えているようですなあ。
どうも、三文享楽です。引っ越してえですね。
(これまでのショートショート)
『ハエトリ草』『前科アリの人々』『ブーツのために』『胎マン』『クリック衝動』
『引っ越し置き人形』
葛飾北斎は、生涯にわたって百度引っ越しをしようと試みていたという。
確かに、引っ越しには夢と希望が満ちている。
保守的に根強く地元へ根を張って生きたい者ならば、引っ越しとは無縁、生まれ育った場所を離れるなら死んだ方がマシ、と思うかもしれない。
しかし、根っからの旅人気質、新しい風土と環境を味わうのが醍醐味という人間にとって引っ越しほど希望に満ちたイベントはない。
新しい風土、自然を知る。
旅行をせずとも未開の地を歩き、空気を吸えるのだからよっぽど経済的だ。
その土地の人柄、文化の風習が楽しい。余所者として激しく迫害されることも往々にしてあり得るが、こちらとしても相手はどうせ他人である。根っからの旅人気質ならば人間関係も旅人、相手を傷つけてしまった一言など記憶の片隅に保存さえしておけば問題ない。旅先に連絡がいって、その後の旅が困難になることがない程度に振る舞い、良くもなく悪くもない印象を与えておけばいいのである、
「あーあ」
ベッドの横で妄想にふけっていたコウは突如声をあげる。
引っ越しの良さを色々考えてみたが、結局は夢なのだ。
自分は片田舎の高校生。工業高校に通い、家は小さな土木関係の工事業者。今更遠くの大学へ通う可能性はもっぱらなく、卒業と同時に二世代にわたって工事を請け負う一生が目に見えている。
引っ越したい、旅をしたい。
地元に縛られる人間が旅行雑誌など見てはならなかったのだ。他の地へあこがれをもてば、自由にならない身の上を呪い、ますます地元が嫌いになるだけなのだ。
「なら、そっくり人形を置いて、こんな街を抜け出してしまえばいい」
そう、できることならそうしたいよ。でも、それができないからこうして……。
ん?
突然コウの思考が途絶えたのは、空中に見えないディスプレイが出現し自分に向けて映像を発しているのを確認したからである。
「これは一体どういう……」 「どうもお世話になります。こちら時空超越相互会社関東支店です。叶えたいけど叶えられない。その思いが群を抜いて周囲より強い方のところのみへ現れる商業会社です」
「はあ」
突飛なことに、いつもの状態ならば驚いて声も出なかったであろう。
しかし、旅行と引っ越しの夢を思い描き、今だけでなく将来に続く自分の一生全体に絶望していたコウにとっては、驚くことすらどうでもよくなっていた。
どうでもいい。
そんな状態で邂逅した危険だけど興味深い事件に対し、人は寛容になり味見をしたくなるものである。
「あなたは人一倍強かったのですよ。この状況から抜け出したいことを心底念じていた。念じる力が常軌を逸していた。イレギュラーともいえる念力。だから我々を呼び寄せることができた」
「なるほど」
もはやコウに常識はどうでもよかった。
今ある状況が、退屈で意外性も見えない苦しい一生を変えるのではないかという一縷の希望であった。
しかし、仕組みは?
先ほど置き人形という言葉を聞いた気がするが、一体全体何のことか理解できない。
「ちょっと考えてみたいのですが……どういうシステムなんでしょうか」
「置き人形をここに放置、我々と契約をむすんだ全国の社員の方々と記憶のみを変えられます。相互会社ですからね、契約を結んだ時点で社員となるわけですよ。身体自体は動かせないが違う風土の経験をすることができるのです」
画面の中から淡々と声が聞こえてくる。実際に応答してくれている人間の顔でも見れば安心できるものだが、時空超越相互会社の宣伝ページがずっと映っているだけである。
「今のあなたにとって、全国を旅したみたいな肩書なんてどうでもいいでしょ? 別に友達と会話をするために、経験をしたいはずじゃないでしょう?」
口語的な表現で、コウは質問を受け続ける。
そして、相手の言うことが、自分が漠然と思っていたようなことでもあったので、賛同の返事を送る代わりに小さく頷いて、意思表示とした。
「むしろ人に知られることなく新しいことをしたい、誰にも知られず自分だけの旅行を完成させたいと思っている」
「はあ、まあ」
「えらい!」
コウが今度は思わず声を出して返事をすると、画面から感情の昂った声が聞こえてくる。
「それでこそ、真の旅人ってものですよ。来た甲斐がありましたなあ。これほどの旅行好きな方には、是非とも置き人形引っ越し制度を利用してもらいたいものです」
淡々とした物言いしかできないと思っていた電子音に急に感情を入れられると、どうしても滑稽さが混じる。
「で、置き人形というのは」
「まあ、語感で予想がつくかもしれませんが、要は、引っ越し生活を送っている間に元の生活をアップダウンさせることなく最低限の生活を行わせておく制度ですな」
「じゃあ、置き人間を使用している間、別の人間が私の置き人形の脳を覗いているということになるのですか?」
「そういうことになります。まず契約を結ばれたお客様の身体をうちの会社でお預かりいたします。そして、最低限の生活続行手段として置き人形制度を利用します。お客様は他の場所で過ごす人間の一生に興味がおありなはずですから、全国に配置されたうちの置き人形の脳へ飛んでその記憶を眺めることができると」
「はあ、じゃあ、全国にいる置き人形制度を利用している人の記憶しか利用できないと」
「ええ。契約を交わした方のみがうちの対象商品となりますが、案外に契約者は多く全国各地に存在するものですよ。各都道府県〇、五パーセント近くの方のご契約は成立されていますねえ。もちろん、海外のコースもありますが、まずはこちらの国内コースがよろしいかと」
「おお。いいですね、いいですね」
「ご契約成されますか?」
「お願いします」
コウは即答する。
「プライベートなんてもはやどうでもいいんです。どうせ、ありふれた人生、こんな発展途上の人生が流出したところでどうだっていい、引っ越しして中途半端にやりすごした置き人間を引き継ぎ、なにかそれなりに発見があったなんていう展開はもうどうでもいい、どうでもいいんだ。今の自分に必要なのは」
思わず笑みがこぼれているのは、自分の口から出てきた言葉が自分の考えをしっかり表していることを感じ取れたからである。
「脳内にある経験、自分にしかない脳内引っ越しと一生を築くことなんですよ。こんな器、誰が使ってもかまわない、そういうことなんです」
コウは引っ越しをした。
脳内が別の土地にある置き人形へと飛び、生活を味わった。
もはや、この世の中に未練などない。
いや、それでは語弊がある。自分は傍観者として一生を負えたいのである。この世の中のあらゆる場所を旅して、物語を眺めたい。自分自身が登場人物になることなど必要ないのだ。
各地への引っ越しは快適であった。
寒い場所特有の生活をして、暑いところならではの生活をして、都会を知り、山河や海を知った。各地の人柄を知り文化を学んだ。
置き人形は地元の観光地的な場所を定期的にまわるよう設定がされているらしく、その時折の景色と雰囲気を味わうことができた。各地の祭りに関しては地元の人間にしか分からないものも多く、貴重な体験となった。遠方の祭りの夜など一つの場所に生きていた者が分かるはずもないことである。
そのうちに家に帰りたくなるだろうと思っていたが、帰りたくなることはなかった。たしかに、久々に自分が棲んでいた置き人形の身体へ戻ってみると懐かしさを感じることはあったが、またずっとここにいたいという気持ちはまるで起こらなかった。
たまに戻ってくるくらいで十分である。
コウはその後も置き人形を残し、旅を続けた。
置き人形にプログラムされた人生は平均的なものであり、三十台の半ばに戻った時にはコウは結婚をしていた。平均的な顔立ちの妻に満足しつつも、本当の自分の性格だったら結婚できなかったのではないかという可能性もあり、置き人形を利用したことに安堵する。
全国を回り、置き人形引っ越しを続け、四十年が過ぎた。
子どもに子どもが生まれ、孫がたまに遊びに来る生活となっていた。いつの間にか立てていた家も古びて、年期を感じさせている。
ふと傍らに女房がいることに気付いた。
自分と同じようにコタツに入り、湯呑茶碗に手を添えて空中の一点を眺めている。
置き人形に戻り、初めて女房の顔を見たときのことを思い出した。平均的ではあるが、自分にはもったいないような女。性格が派手なこともなく、地道に自分のことを支えてくれていたのだろう。
「なあ」
声をかけると、女房はこちらを向いた。
コウの言葉を待っている顔には皺が増えていたが、昔のままであった。
「ありがとうなあ」
思わず言ったのは自分が次の引っ越しで、平均的寿命を超え死んでいる可能性を感じたからである。ほとんど自分らしい自分を表現できないことに多少の悔しさはあったが、それでもこの器をもつ自分と長年寄り添ってくれたことには感謝したかった。
「なんです、急に」
実質数年しか一緒に居なかった相手に涙が流れることはなかったが、胸が熱くなる思いは十分であった。女房の老いた手には、置き人形でないコウ自身の人格の時に、プレゼントした赤い髪留めが握られていた。
「私からも感謝していますよ。いつもありがとう」
これ以上、自分のままでいると本当に涙を流す可能性もあったので、コウは次の引っ越しを決めた。
もう本当にこれで最後かもしれない。どうせならばまだ全く使ったことのない置き人間がいい。そして、まだ見ぬ世界を味わうのだ。
コウは置き人形を残し、引っ越した。
が、しかし。数秒後、目の前にいたのは定期的に見ていた自分自身の顔であった。
いる場所も先ほどまでと変わらない。
念のために手を見てみると、赤い髪留めが握られていた。