アドレナリンの使い手、それはそれだけで芸術家のアドバンテージをもっていることでしょう。
そういう人に、どれだけ多くの芸術家ワナビーが嫉妬し、ヘイターとなるのでしょうか。
どうも、酒と揚げ物のを見た時のアドレナリンは人一倍、三文享楽です。
分かっています、はっきり言ってもらってもいいです。
それはデブの食い意地だろ
と。
ええ、いいのです。
さて、今回の小説はこの前の小説『フロム未来世紀末』とほぼ同時期に書かれたものです。
前回の『フロム未来世紀末』の最後の方に出てきた天然の木馬号はこの短編小説の概念に由来するものです。他の小説の概念を他で登場させるとはいっぱしの小説家気取りですが、当時の僕は僕の世界観で茫漠な宇宙を作り上げようとしていたのだから仕方ありません。
ということで、今回のも割と一息で書いたような観念小説であり、行替えが少ないです。
意識ごとのまとまり、おっとあまり語っては、良くないですね。
まずは読んでいただければ幸いです。
『廃車・天然の木馬号』
旅に行きたいけど行けない。人は旅を勧めるが、旅とはなかなか行けないものである。そう。忙しい現代人が疲れを癒すのは旅である、というのはとても素晴らしい哲学をもっていらっしゃる方や、社会を運営していらっしゃる一般人より凄いと言われているお方などが、宣わすお言葉でしょうが、私はただ単に旅に行けないのである。共感してくれる方も大勢いるであろう。明日の飯すら確保できない財政面上の断念、商売を中断できない職業上の断念、介護など人手的で人命にも関わる役割上の断念、周りに敵だらけという人脈上の断念、身体が不自由だったり突如ひきつけを発したりするような身体上の断念、贅沢はいけないなどの宗教上の断念、親や妻などの嫉妬や慣習といった束縛上の断念。例をあげてみれば、止まることを知らないだろう。いや、介護や商売なら他人に頼んで少しは行けるだろうし、宗教や人的な束縛なら多少の強制決行でも可能だろう、と言える者は、言えるかもしれない。それはそうだ。無責任な者ならば、その後を考えずに行こうとすればいつだって旅に行ける、などとさも自身が旅によって寛容な器量を手に入れたかのように、ご忠告をしてくださります。井の中の蛙大海知らず、というとてもためになるお言葉までいただけるかもしれません。でも、そんな言葉、けっ。旅が結果的に人間性を豊かにするなどといった文句を聞いたところで、旅に行けない者は数多いる。勿論、旅よりも食料を必要とする人達には、所詮旅に行きたいけど行けない、という感情をもつこと自体が妬ましく抗えない仕組み、などとなるかもしれないが、やはり旅には行きたいものだ。尤も、貧乏でありながらも、書物を好み好奇心が広がってしまえば、旅を羨望するものも出てくるだろう。だから、旅をしたい者が大勢いるだろう、と私はここに座って想像を巡らしているだけだ。ただ、家の寝床の隣で座っている。寝床があるだけでもありがたいだろうとか、座っている時間がとれるだけでも羨ましいとか、言って欲しくはない。ちょっと芽生えた感情を外に出しただけでそういった批判をくらうかもしれない、と考えただけで厭になる。益々、旅に行きたくなる。行きたいのに行けないのだから更に厭になる。世の中が嫌いになる。こんなことで嫌いになる自分がどんどん厭になる。でもね、どうして旅に出られないかを問われても、答えたくはないな。どうせ答えたところで、それは何がいけないからだとか、またお説教をされるのでしょう。それほど行きたいのなら多少無理してでも行った方がたった一回の人生のためには良いだろう、と偉大な人ほど言うのだろう。また、教えてくれるのだろう。言えるよ、誰だって。旅が人にとってどれほど良いことで経済効果にも人生経験を増やすにもいいことは知っている。だが、行った後はどうするのだ。行っている最中は? 自分を磨くためには意思を貫くのが大事、だなんてもう言わないでくれ。私だって、何度この生活に風を入れるために強硬突破しようと目論んだことか。幾度、旅に出たまま帰らないことを夢見たことか。私とて全てを擲ってまで旅をしたいとは思わない。本当に擲てば、満足する結果が得られる旅になるかもしれない。可能性だけなら、何とでも言える。だが、今の人生にだって、それなりに楽しいことは訪れるのだ。旅に行けないなりに幸福はある。小さい幸福が。これが、人質があるからだとか、他人の生命に関わるからだとか、といった理由ではないのだから、まだ私は恵まれているのだろう。それと比較すれば、まだ気持ちが穏やかにはなる。だが、穏やかになる都度、マスが凄いと定義する人たちが旅を勧めているのを聞くと、もどかしいような、いたたまれないような、何とも言えない虚無感に襲われるのだ。ただ、それだけだ。今日もそれを寝床の隣で考えている。何だっていい。動きはない。強いて言うならば、寝床の隣で座っている、ただ、それだけだ。この肉体だけでも飛び越えてどこかに行けないか。いつかどこか、遠いところへ。何度この幻想を唱えたことか。結局はここへ行き着く。肉体があるだけ悪くはない。この肉体があるからこそ、空を飛べなかったとしても、地を歩ける。束縛イコール自由だ。だが、魂だけ。記憶だけでも。この肉体を離れて、どうせならば、遠いどこかへ行けないだろうか。誰も気づかないようなところへ。今のところ私はここにいるが、意識を肉体というコックピットに据え起動を命じていないようなものだ。誰だか分からないのは勿論のこと、いつの人間か、はたまた人間であるかさえも分からない。場所は寝床の隣であることが明白であり、実際に隣を見れば、確認することが容易だ。だが、私がここから出ることには、背景や時代が影響してしまう。他人の反応を見ることによって、私がこの社会において、他者の目にどのように映るかが知れて、どういった人間関係をもっているかという事実から人間性までが分かり得てしまう。ただ認識するだけの存在かもしれないという可能性から、他人と関わりをもてる乗り物の車掌であるという認識を得ることができるのだ。本当に私は人間なのだろうか。畜生だって、寝床の隣でじっとしていることはできる。譬え、それが私と同じように旅に行きたいのに行けないという欲求不満な感情をもっていなかったとしても、内面上、ひいては外面上すら人間であろう私となんら変わりない。いや、この場合は人間の方が知性をもつから畜生より高等であるという偏見からなる一般常識を鑑みるに、私が外見上は畜生と変わりないと言っても適切だろう。寝床の隣でじっとしている私は畜生と同じである。何を考えるかより何を選択するかが大事とはよく言われることであるし、実際に私もその通りだと思うのだが、認めると結果的に、私は畜生と同じ動きを選択したということになるのかもしれない。私は畜生だ、私はダニだ、私は家具だ、私は廃車、なのだ。動けるくせに動きもせず、不満だけを貯めてただじっとしている。性能は悪くないのだが、意思決定をできない車掌が乗ったためにここで座っているだけなのだ。ここまでで時代の特定はできないまでも、可能性は考えることができるようになってきてしまった。平安時代であれば、有閑者はごくわずかであるが実在するし、江戸時代ならば多少増えるし、現代ならば誰もがなりうる。いや、いつの時代であっても、こういった廃車には自身がなりえるのだ。本来やるべきことをやらなければ誰もが行き着くところ。やらなければならないことって何だろう? いや、こんな堂々巡りは何度も回り回った結果考えないことにしたのだ。やらなければならないことはない。それは誰もが分かっていることではないか。私はただここにいるだけ、旅行に行きたいと思いながら。外に出る。そうしたら、誰かに会うのだ。可能性は広がる。おじいさん。気さくなおじいさんが話しかけてくるかもしれない。目が意外と澄んだおじいさん。私を見つけて話しかけてくる、そうして、こう囁く。今夜、君のところへ迎えを遣わす。旅行に行きたいのだろう。できれば、誰も訪れないような遠い遠いどこかへ。これが乗車券だ。なあに、見えなくても平気さ。君に渡した。渡したという事実がお互いにあればそれだけで、それ以上のことなど必要ないだろう。この乗車券で君は遠いどこかへ旅立てる。行き先は未確定だ。だが、迎えへ行くといっても、なかなか直通するものではない。君にもできる限りのことは必要だ。なるべく早くに電気を消してくれ。光はないに越したことはない。余分な物が見えては、もし旅行へ行けたとしても映像がダブることになりかねない。肉体はここへ置き去りにするのだから、それくらいできるだろう。肉体はここにあるの? そうさ。肉体はここにあるまま旅行はできる。そうでもしないと、家族に怪しまれてしまうだろう。これは、できるだけ日常生活を維持したまま、旅行に出ようというプランなのだ。宗教的な理由があれば、表面上だけ信仰して精神はさっさと旅立ってしまえばいい。毎日介護が必要というのならば、精神を抜いて肉体だけを用いて当たり障りのない没個性の肉体だけ提供すればいいのだ。こちらの世界で我を突き通してまで、争うことなどないだろう。こちらの世界で信念なんかを他人と対峙するだけ無駄であろう。それがいざこざになって、戦争になって結果としてこちらの世界でさえ、楽しみを感じられなくなる。それは厭だ。精々見せかけ上の幸せくらいは欲しい。ならば毎晩旅行に出なさい。さっき渡した乗車券を使って。旅行に出るためにこちらの世界で肉体維持に努めるのです。精神をとどめておく肉体がある限り、お迎えにあがる。天然の木馬号は到着いたします。天然の木馬号は、いつだって、どこにだって、やってくる旅行の移動機関です。そうすれば、旅行に満足しこちらの世界でも楽しむことができる。乗車券をもっている方のところへやってきますよ。私は旅行に行くことができる。乗車券もあるし、お迎えも来ることを聞いた。私は旅行に行けるのだ。おじいさんはいなくなる。私はまた寝床の隣でじっとしている日常へ戻る。やるべきことはたくさんある、はずだ。でも、今夜旅行に出発できるのならば、頑張ってもいい気がする。ほおら、立ち上がることもできるはずじゃないか。見送りという選択肢だって私にはあるはずだ。忽ち夜はやってくるだろう。毎日やってくる夜。その都度、私は一介の人間らしく夜の寂しい感情をもっている。だが、今日からそんなこと関係ない。私にあるのは旅への切符だ。何を考えても結論に至るまでに旅に行けるという興奮でわくわくする。それは一般的な旅とは違うかもしれない。ただ、乗車券もある。理由はどうであれ、世界中の誰もが行けるかもしれない、旅。私はいち早く灯りを消すに決まっている。体の調子を心配されてもかまわない。私は旅に早くに出る。路線はここまで通っていないのだが天然の木馬号はやってくるという。私は銀河宇宙を、線路も敷かれていない空中を走る。走るのだ。特急電車を予測してみたが違うかもしれない。天然の木馬号には車両も吊革も手すりもないという。乗車券をもつ者のところへやってきて、旅をもたらす乗り物。それもそうだ。肉体をここへ残しておくというのだから、肉体を乗っける車両も必要ない。
本日はご利用ありがとうございます。
誰だ。
この超特急の車掌です。
車掌? ここはもう汽車の中ですか?
はい、あなたは既にご乗車になられました。そして、乗車券をお持ちでいらっしゃる。
はい、たしかに。乗車券は家の前にいた、と思われるおじさんにもらいました。
ならば問題ございません。乗車券があればいいのです。本日はご利用誠にありがとうございます。天然の木馬号へようこそ。
どおも。天然の木馬号は超特急だったのですね。
ええ。私はこの超特急の車掌です。車掌というからには、乗客を安全にお届けする義務があります。ただ、義務という言葉を使うと、どうも、私が状況によっては簡単に変えてしまうくせに必死で言い聞かせて遂行しようとする人間みたく思われてしまいます。果たして、言葉ほど曖昧で動作を全く異次元の言語に変換してしまう嘘はあるでしょうか。だから、車掌だからといって、いちいち義務などという社会規範云々を持ち出した契約がましいことは端から負うことはいたしません。義務などという言葉も用いずに表そうとしても、やはり旅行をもたらす存在として、車掌という存在でいることが最も相応しいと思われます。
旅行をもたらす存在ですか。抑々私は旅行に出たのでしょうか。出たことが本当だとしたら、私は切符を使って乗車したことになります。そうすれば、車掌さんは私を旅に導く存在として、車掌という記号に当て嵌められたことになるでしょう。ですが、もし私が乗り込まない場合、車掌ではなくなってしまいます。いや、この天然の木馬号に関していえば、確かに天然の木馬自身が車掌かもしれないが、私にとっては何でもなくなってしまう。
尤もです。ここで一哲学者たらしい人間が如く言ってみれば、天然の木馬号に乗車しない者からしてみれば、態々乗車せぬ超特急の車掌など知らなくて当然だ、ということになります。自己との関係が出てきて初めて、存在者として自分の中で混沌から切り取り名付けるなどというのでしょうが、そういうわけでもありません。私は言葉が嫌いです。言葉はそれぞれ人の数だけ意味の解釈があり、結果的には人の数だけ意味があることになります。ほぼ同義として使われていても、考える主体が違うため、どんなに平々凡々たる脳髄が解釈を与えたとしても、完全的な客観からいえばやはり異なるのです。一語一語に共通の説明書もない理解を、道具として用いるのだから、やはり摩擦も起きるでしょう。ですが、もしある一つの言葉に対して、三人が三様の解釈をしたとしても、それを表す言葉も決められたものを使用せざるを得ず、コード的な言葉に当て嵌めて使えそうな言葉を発してきます。その場合、下手をすればほぼ同じような言葉を選択して発音し、まるっきり同じ思考回路をとったみたいなことを口走るのです。恰も言葉の共有が脳の共有みたいに。でも、そうなってくると、嘘っぱちである共通の取り決めさえ利用しなくなり、情報交換さえ不可能となります。全く気付きもせず、点がすぐ近くに存在し続けるだけよりは開き直って、嘘っぱちを交わした方が想像以上の概念を齎す、だなんてことさえあるのです。だから、やっぱり嘘っぱちで嫌いな言葉でも、無理して交わした方が得するはずです。ですから私は言葉を使います。その上で考えてみて、自分なりの意味があることに開き直れば、自分自身がまず言葉に娶られる存在として、より近い名前にすることだってできます。そうすれば、旅を齎すからと車掌と名乗ってもいい。まさしく私なりの名前だ。だからこの天然の木馬号での車掌となる。
そうだったのか。
覗いて見れば分かる。
私がいる。ただでさえ、厚い下唇をだらりと半開きにし、豊麗線と眉間に皺を寄せている。乗り古した車だって、いざ廃車処分にする時には、多少たりとも別れの苦しみや未練を感じるものであろうが、今、私の目の前に横たわっている乗り物に対して、私は何も感じなかった。悲しみや憎しみさえない。この有機体は徐々に冷たくなり、数日の間、誰にも発見されなかったとしたら、蛆虫に食い散らかされているであろう。そう。この半開きの口もひしゃげた鼻も重い瞼も中から外から真っ白に蠢く節束動物で埋まるのだ。だが、やはり何とも感じられないのである。
乗車券をいただきました。
どこからか車掌の声が聞こえる。私がアクセスしたのだから当然か。車両なき超特急は午前二時にやってきた。自宅からでも気軽に行ける旅。なんと優雅なものであろう。当初乗り合わせてくるのか、心配であった車掌も乗ってきたし。それに当然のことだが、私の乗るスペースも確保されている。以前私が乗っていた乗り物が、まだ見えているかと思ったが、意識したときには目の前にはなかった。トンネルかどこかに入っているのであろうか。まあいい。もう私は乗り込んでいるのだ。別段、細かい手続きや荷物の移動があるわけではない。乗車券を渡してしまえばあとは乗っているだけ。それが旅行の醍醐味だ。行き先はその時ごとに決まっていく。
今回は三次元本線をご利用いただきありがとうございます。定刻通り三次元世界システム地球を出発いたしました。この先、神々、観念、五次元と各駅に停車してまいります。修羅、餓鬼等六道環状線ご利用の方は、次でお降り下さい。また、ご不明な点がございましたら駅係員までお尋ね下さい。
はて、私はどこに向かっているのか。とりあえず旅行に出たい気持ちはあったが、行き先を決めていなかったのだから、どこに向かえばいいか分かるはずもない。
お呼びでしょうか。
おや、また違った車掌の声だ。流石だな、対応が早い。
どこまで旅行していいのか分からなくて。
お客様ですね。少々お待ちください。お客様は、あと八回ほど、六道のどこでも降りられる回数券をお持ちです。特に、強制下車のスタンプも押されてないようですし、観念駅経由で六道どこでも下車できます。
なるほど、天国でも地獄でも、好きに選んでいいということか。
六道以外はないのですか?
ございますよ。でも、お客様のご使用になられている乗車券では、観念駅経由の六道各駅のみですね。もちろん、先ほどの三次元世界システム地球より向こう側の駅にも、お戻りになられることはできません。また先ほどの世界でしたら、肉体は既に廃車となっているため、五次元駅にて乗り換えをして一次元直通の世界線地球で降りたとしても、空中をさまようしかないですね。
五次元駅経由の場合記憶はどうなるのですか?
はい。別料金をお支払いいただければ、記憶はこのままでも大丈夫です。
なるほどな、別料金か。見返りというのは、どこでも当然のように発生するのだな。だが記憶に残るあの世界では、見返りもなしに信頼関係で恩恵を受けることのできるシステムもあったはず。あの不可解なシステムは、不便であると同時に、やはり便利だった。居心地が悪かった分、見返りのない関係というのも築けていた気もする。ただなあ。今も後悔に似た観念が通り過ぎたように、記憶が残るというのも良いような悪いようなだ。それに、料金とは何を払えばいいのか。私はこれっぽっちも払えるものなどないではないか。
私は何を払えばいいのですか?
はい。料金はまず膨大な時間です。時間といえるのかも分からない止まった時を五次元駅経由では必要とします。ただ、これは移動の形式上やむを得ないことです。また、希望通りの旅行をした後は、それ相応の労働をしてもらいます。
労働? この通り私には肉体もないですよ。
はい。労働といっても、あなたがかつて乗っていた三次元世界システム地球の人間がもつ労働概念とは大きく違います。例えば、あなたは地獄駅を選ばなかった。それは三次元世界システム地球から乗られた多くの旅行客は同じです。地獄を選ぶのはやはりごく少数というわけです。それは苦痛以外の感情を持ちえない、と予想していたからです。
それは分かります。ただ、そこでの労働とは何なのでしょうか。ほんの遊び心で地獄駅に降り立つ乗客もいるかもしれないですよね。しかし、そこで圧倒的優位に立つ鬼や火焔山といった世界システムは、世界システムを管理する職員の仕事ではないですか。
はい。世界システムを創るのは電鉄のような準公務員ではなく、世界システム管理局に勤める純然たる公務員の仕事です。ただ、管理システムを整えるのが仕事です。そこから先の労働は浮遊魂、核への旅行のためとして、行っていただきます。
だから、それでは労働とはなっていないですよね? まさか、そこに降り立つだけで、あとは思い通りにしろということはないでしょう? それでは結局旅行と変わらないですよ。
いえ。それでいいのです。我々職員が用意した世界システムのうち不人気となっている世界システム、駅に降り立ち、思い思いに観光していただければ、それでいいのです。
信じがたいです。それは何の生産性もありませんよね。旅行客はその旅行費用のために行きたくもない旅行に行って稼ぐということですか。車掌や旅行会社にとっては何の利益もないです。その後に宣伝のためのテレビ出演やエッセイ執筆の依頼があるのならば、話は分かりますが。
いえ、記憶です。その記憶を料金として保存していくのです。
記憶。それがどうして必要となるのですか? 記憶が何を創り出せるというのですか?
記憶を置いていく。それは概念を構築していきます。また広がりというものは記憶の保存、それ自体からなっていきます。だから、敷いたレールを、果てのない、無の概念も無い、無の世界に切り開き置いていかなければならないのです。
つまりは、記憶のために我々は旅行を強いられ、その旅行が義務となった我々に感情を持たせ、選ばせる喜びとそれに代償する記憶のための旅行を、何度もさせるということですか?
ええ。漸く気が付かれましたか。あなた方は結局、旅行をさせられているに過ぎません。旅行をし続けなければならないという柵にとらわれているわけです。この世界システムは旅地獄に雁字搦めとなっているわけです。だから、より人気がない駅に降り立てば降り立つほど、乗車券に匹敵する賃金が出ます、褒美が出ます。大事なのは、どの旅先を選ぶか。
車掌さん。
はい、何でしょう?
途中下車をしてもいいでしょうか? なんだか急に気分が悪くなってきました。私は自分の意思で切り開く旅行がしたかったのです。こんな「させられている旅行」なんて不本意だ。私は帰りたい。こんなことなら、旅になんて出るんじゃなかったです。旅行したいと思っているあの時の方が希望に満ち溢れていました。帰りたい、私は帰りたい。この天然の木馬号から降ろしてもらえませんか?
ええ、降ろすことはできますよ。しかし、お忘れですか? あなたの乗っていた肉体は既に廃車となっている。果たして、今帰ったところで乗れるかどうか。
ああ、なんて酷い。私はこの乗車券をくれたおじいさんを恨む。私はもう帰れない。
どれだけ恨んでも一向にかまいませんよ。ただし、思い出してください、その老人の顔を。誰かに似ているとは思いませんか。ええ、あなたにこの天然の木馬号の切符を渡してのは誰だったかをまず思い返すべきですよ。頭の中の老いに乗車券を渡されたのならば、それは肉体の終わりを告げる合図かもしれませんね。
三文ぼやき
鬱屈した観念を書かせたら随一、当時そのように呼ばれていることを想像し躁になり、自動筆記状態になっては空虚の脳の元、無思考状態で規制を発していたのは、ええ、誰でしょうかね。
さてさて、私の他の短編小説にも共通している概念のようなものがわりとこの作品には詰まっているような気がします。
処女作に作家のやりたかったことは詰まっている、などとよくいうものです。
となれば、私としては処女作の『抜本的少子化対策』に詰まっているということとなりますが、確かにそんな気がするものの、私としては処女作群に全てが詰まっているような気がします。
この『天然の木馬』概念は私が小説を書きなぐっていた当初に創り出し、原案は処女作群の一部です。
と偉そうな言い回しに尊大に自分の執筆歴を語っていたら気分がすぐれなくなってきたので、あまりすごくなさそうなことを言います。
私は、ちょっと普通の人と違うよ
はい、いかにも中途半端ですごくないですね。
ぷぴっぽぷー
更に、半端な奇をてらえればなんでもいいような雰囲気が醸し出されてきました。
とまあ、正直、どうだっていいのです。
脳内にやってくる深夜超特急に乗って、時空を超越したい。
これは今でも強く思い、夢見ていることですな。
↓私が現実逃避の旅行を考えていた当時、こちらの世界で希望を与えてくれたのは寿司だった。
↓そして、城を見て我々は過去に思いを馳せるのですな。
↓もういっちょ、城のおまけ。