三文 享楽 小説・エッセイ等

無料web小説 短編13『映画狂の今日』【三文】

お世話になっております、三文享楽です。

映画監督と言えば、どなたが思いつくでしょう?

名作、金字塔、不可欠な記録など映画という世界を構築された偉大な監督は数多いらっしゃいます。私は、創作物や世界観だけでなくそれを構築された監督にもリスペクトをはらいながら、日々映画をたしなんでおります。

本日はある映画監督を紹介します。

こちらの映画を作った男、紅葉葉秀秀逸監督です。

ええ、そしてこのブログの管理人でもあります。彼の創った映画はこのブログ内にあります映画ページからお進みください。

さて、紹介はここまで。

だって、本日の記事は、私の書いた映画関係の短編小説がメインなんですから。わはは。


『映画狂の今日』

深夜一時、エフ氏は目を覚ました。

けたたましい目覚まし時計に起こされたわけであるが、もちろん時計のかけ間違えではない。

今日は火曜日であり、会社勤めのエフ氏には明日も出勤が待っている。フレックス制や早番・遅番制度が導入されている会社ではないから、定時が九時といういたって一般的な出社時刻が毎日待ち構えていた。

夜中の目ざまし時計に起こされたエフ氏は、目をこすりながらも素早く体を起こし、洗面所へ向かった。口をゆすぐだけでも眠気はとれるものである。

さらに一口麦茶を飲むと、ソファの定位置へと腰かけた。

大型のテレビには映画が映し出されたが、寝室にいる妻や子供部屋の息子が起きることはない。ロングイヤホンをつけ騒音対策にはしっかり手をうっているからだ。

エフ氏は一日に映画を四本見る。一・五倍速で見ているから時間も有効的に使える。

若い時分から映画好(ず)きではあった。だが、職場では主任級の職を任され、プライベートでは家族との円満な生活が保障されて以来、その映画狂(ずき)は加速した。

平均して平日の五分の四は「映画夜更かし」に費やしている。

夜更かしに費やさない日というのも、飲み会があったり残業が続いたりと、夜更かしをすることによって翌日以降の夜更かしに影響が出そうな日になることがある場合である。

睡眠時間は三時間程度だが問題はなかった。下手に惰眠をむさぼって眠気が出るより、体は潤滑に動いた。

第一、精神的にも映画は不可欠であった。

毎日数時間の夜間逃避行がなければ、とても辛く厳しい業務に耐えきれそうはなかったのだ。

「ああ。映画の世界に入ってしまいたい」

目を閉じた時には、もう映画の世界へ迷いこんでいた。

そんな展開を何度願ったことだろうか。

SFかなんかの物語の中ではそんな境遇に落ちることを嘆いて、あるいは最初喜んでいたとしてもしまいには嘆いているが、エフ氏にとってそれは贅沢以外のなにものでもなかった。

さっさと自分の人生を終わらせて、めくるめく未知の世界を旅行することは本望である。

そう思いながら、エフ氏は映画を観続けた。

五十五歳でエフ氏は死んだ。

元来身体を動かさない性格だったのと毎日の睡眠不足が利き、肺炎になるや否やあっけなく死んでしまった。

生涯を終えたはずのエフ氏であったが、気付けば映画を観ていた。

死ぬまで観ていた自宅のテレビと同じくらいのサイズのスクリーンに映画が映し出され、それを眺めているのである。

ストーリーはどれも一人称スタイルで進んでいくようで、主人公の生まれから死に至るまでを追っているようである。

どうやら人の一生が映画になっているらしい。

エフ氏は、死んだら他人の一生を覗いていられるというストーリーを昔どこかで観たことを思い出した。その設定だけで十近くの作品があったはずである。

あれらは全て、本当に起こり得たことのようだった。

これからも映画を観続けることができるということは、エフ氏にとって、至上の喜びである。といっても、肉体を失ったエフ氏には、喜びの感情をどのように表現していいのか分からず、仕方がないからノンリアクションで映画を観続けた。

どのような仕組みで映画を観られているのか分からないが、エフ氏の視界にはただ延々と映像が映し出されていた。もちろん、音声もある。匂いや味覚が出てくるという近未来的な設定はなく、エフ氏が生きていた時代における映画の範囲で上映がされていた。

人間の一生を追う内容であって、もちろん観たことのない映画ばかり。たまに見たことのある人が登場するのはその時その場にいた他の人間の視点となった映画を観ているからであろう。

父親の映画を観た。

息子の映画も観た。

職場の同僚が出てきて、芸能人の家族が出てきた。

幸せであった。

自分とは関係のないどこかの人たちが泣いたり笑ったりしている。アクシデントに驚いたり戦って死んだりしている。

映し出される様々なストーリーを高みの見物しているだけでエフ氏は満たされた。

何百、何千という命のドラマ。一つの命がいくつもの命と出会い関係していく。

生まれては死に、生まれては死んでいく。

膨大な時間が永遠のように流れ、そのうちエフ氏は自分の名前を忘れた。家族の名も友達の名も忘れ、自分が生きていた時に何をしていたかも忘れた。

自分自身が人間だったことも忘れると、映画の内容も変わってきた。

人間の映画から動物の映画に変わり、言語がなくなってきたのだ。エフ氏が言語を失ったのも、この頃だったように思われる。人間のドラマがなくなり言語による接触がなくなった今、映画を観るに言語は不必要である。

映像の中で、動物は大地をかけまわり、息吹を芽生えさせていた。

滅びては生まれ、滅びては生まれる。

生きていたことそのものを忘れた頃には、映画は自然現象のみの内容に変わった。

荒涼とした岸壁に波が打ち寄せ、噴火が止まない。

雨が降らなくなり、陸から植物が消えた。しばらくすると、表面は凍りつき、星は閉ざされた。固まったボールが浮遊している。

エフ氏の目の前には、球体がずっと浮かんでいるのみとなった。

……。

 

ようやく、エフ氏は映画が終わったことを知り、意識を閉じた。

映画が観たくなった時、エフ氏は再び命を手に入れることができるかもしれないが、それは映画製作者にしか分からないことである。

 


 

え?映画よりも必殺シリーズが見たい?

え?映画見ながらハンバーガーが食いたい?