子どもの頃に見ていたアニメで感動的に終わったのもあれば、逆に中途半端なところでムリヤリ最終話が迎えられたようなマンガもあったような気がします。読者の人気がないから打ち切りという大人の事情を理解するようになり、私は数々の打ち切りマンガと成長してきたことになります。どうも、元マンガ中毒者、三文享楽です。
この小説は自分の書きたい世界観をひたすら紙にぶつけたものであって、人気投票による連載制度だった場合、打ち切られずいける内容かどうかは正直、著者の三文としても分かりかねるものです。私としては、この小説を書いていた当時が幸せであり、小説で理想郷を求めていました。だからいわゆる「ユートピア小説」のジャンル、ストーリー展開よりも筆者の確立した社会制度の紹介が重視される傾向にあるジャンルが好きな方に気に入ってもらえればな、と思っています。
しかしまあ、回転オトエフミだから無事に最後まで連載させていただきましたのです、ありがとうございました。
これまでの『笑い島』→『笑い島』1、『笑い島』2、『笑い島』3、『笑い島』4、『笑い島』5、『笑い島』6、『笑い島』7、『笑い島』8、『笑い島』9、『笑い島』10、『笑い島』11、『笑い島』12、『笑い島』13、『笑い島』14、『笑い島』15、『笑い島』16、『笑い島』17、『笑い島』18、『笑い島』19
この小説は全20回の連載でした。
今まで読んでいただき、大変ありがとうございました。
『笑い島』20
10
東変朴が死んだ。
ここでは時間も曜日概念も存在しないようなのだから正確には分からないのだが僕がここへ来てからのおそらく感覚からして数ヶ月が経った。来た当初から家の外壁なりどこかへ正の字を刻んでいれば経過した日数が分かるものだが、生憎あの状態でそんな考えに至ることもなくそういったことが気になったのはごく最近のことである。それにもし実行していたとしてもここでの生活を知っていくうちにどうでもよくなっていたかもしれない。とにかく結論として行き着くところは数ヶ月が経ったことだけは分かる僕の感覚からして一ヶ月ほど前から東変朴の体調が芳しくなかったということである。午前も午後も外で見かけたしステージにも立っていたのだが体調の悪化は目に見えるようであった。島民性からして直接それを止めるようなことはなかったのだが、誰もが老年コメディアンを労り自宅休養を進めていたのは確かである。それでも最後まで老年コメディアンは自身で気付いていたであろう体の変化、病気をも笑いに変えようと尽力しステージに立てなくなったら意味がないとの一点張りでネタをしていたのである。その後、身体がどうにも動かなくなったのだがそれでも自宅を出て広場近くにある寝床までやってきて療養をしていた。何回かその生活を繰り返し、昨日の夕方にそこで冷たくなっていたという。
考えてみれば僕がこの島へ来て三番目に顔を認識した人物である。ばぶうに見つかりえんぴつ魔人にも見つかり、呼ばれてきた島民たちの先頭にいたのが東変朴である。
誰もまとめ役として常々上に立つことのないこの島の風潮ではあるが、誰もが東変朴に対して畏敬の念をもっていることがありありと窺えた。東変朴がこの島での一島民にして、最もこの島の雰囲気を思わせる島民のようであると僕自身が捉えていた。尊敬したとしてもこの島の掟を解釈して笑いの神として誰も祀らなかったようにも思われる。尤も本人が一番そんな王座の地位に押し込められることを嫌ってはいただろうが。
本人は決して口にはしないが「親しみやすく達観した全ジャンル極めるコメディアン」になろうとしているようであった。勿論僕が普段の東変朴が話す内容や様子を観察して僕なりに解釈しただけの話である。口にしたことはない。勝手に肩書きを押し付けてしまうことが本人の意思を汲み取っても恐れ多いように思われるのだ。それでいて常に自分から笑いをとりにいき親しみやすくありたいという姿勢が読み取れる。おそらくここには誰もが同意するであろう。いずれにしろ最もこの島の人間らしく見える人間として尊敬したくとも、らしくみることがその本人にとって不本意だろうし特別視をしない風潮ゆえ島民たちは尊敬の気持ちを心にしまい接しているようであった。
僕の頭をフル稼働させて表現するとすれば神格化されることを嫌った笑いの神ということだ。記録よりも記憶に残ることを選び、常に現場にありたいことを自ら実践していたコメディアン。本物という表現が心に浮かび胸が熱くなった。
だが……。
だが、心なしか島民はいつもより笑っている気がする。
普段から午前広場に集まり次第に朝飯の準備を始めつつ何事もなさそうな顔で誰かがボケるとその場にいたものは気分次第でツッコンだりノリツッコミやツッコミ無しの悪ノリをしたりして空気を楽しんでいるのだが、今日はボケもないしそれにかぶさるツッコミもないというのにみんな朗らかな笑顔を浮かべているのだ。いや、そもそも
広場に集まったというのに誰も何もしようとしていないのだ。
昨日の夜に作り置きしておいたおにぎりを誰が運ぶと決まっているでもないのであって調理場に一番近い机の上に、ただ、置かれている。今日のMCが適当に出てきて午前の活動分担を決めるのだが誰も動き出さない。皆、広場にいるのだが動かなかった。
何かを忘れている。
何かが抜けている。
いや、動き出さないわけでもない。
椅子に腰かけて話題もないのに話しかける前の笑顔を振りまきながら辺りを見回している者がいる。立ち上がったと思えばまた何もないところで引き返すという動作をひたすらに繰り返す者もいる。
そわそわしているという表現が一番合うのだろうか。
そういう僕だって島民たちの不可解な一連の動向を観察する一方で、舞台にあがった東変朴の芸が思い出されて舌の根本が硬直していくような感覚になっていた。
そう、
何十万何百万という人口の地域で暮らしてきた僕とは違う。
百人程度の島で生まれた時からずっと一緒にいる人間がいなくなってしまうという感覚はまだ間もない僕には想像しきれなかった。勿論、最高齢の椿オト女にとっては生まれたときからではないが、自分を最も古くから知る人物が一人いなくなったということである。
「今日、どうすっかなあ」
後ろで誰かの声が聞こえた。機能停止した頭の中で久々に入ってきたその音声が何度か自動再生されると声の初めが少し枯れていたのを読み取った。
「漫才の相方が決まんないよ。東変朴のじいさんとやろっかなあ」
その名前が出るだけで周りの人間の意識が急激に呼び戻されるのが分かった。集中するのが分かった。おそらく僕一人が例外なんかではなく誰もが混濁した意識の中にいて、考えることができない状態にいたのだ。そこへ急に意識白濁の要因となっている対象物を表す音が入ってきたのである。強制的に脳波反応をするであろう。
「ちょっと難しいかもなあ。たしか東変朴さんは今、手が離せない状態だったよ」
「ええっ。ああ、そっか」
誰かが間延びした声でゆっくり言った。
それを皮切りにちらほらと会話が生まれてきたようである。
どれも棒読みに近いわざとらしいようなものだったが、時々笑い声があがっていた。常識で考えたら不謹慎な気がしないでもないが皆それも含めて全てを笑っていた。誰もそれをなじろうとしないどころかむしろきっかけとなり時間が動き出した。第一、不謹慎なんていうものがここにはないような気がする。常識が若いうちに集めた特定地域における偏見だとすればここではむしろ、悲しいときこそ笑って生きるための行動を起こした方が常識人のように思えた。泣かなければならない決まりなどどこにもない。笑って生きる。それがこの島であり、コメディアン東変朴の残した意志である。
ふいに視界にあったものが動き何秒か遅れてそれが人間の頭部であり顔が上がったことを認識した。前に座っていたばぶうがこちらを向いていた。なんとなく目が薄赤い。
「そういや、そろそろ花火の時期だけどさ、打ち上げ花火に括り付けるとしたら誰がいいかな」
なんちゅう質問やねん。
唐突過ぎるわ。いや、だからこそこの質問の意図も見えていた。感情と連動した水分の流れを止めようと真っ赤になって精一杯務めを果たそうとしている白目をしたばぶうは僕が勘付くことまで考えてこの質問をしてきているのだろう。
答えなけりゃならない。
どうしても死者をネタにして笑いを作るということに違和感がある環境で育ったこともあってか抵抗が何となくあったが、ばぶうはそんなこと関係なしにずっと昔から僕がここの島の人間として過ごしてきたかの如くの信用を以て周りと同じようなノリでブラックユーモアを投げかけてきたのだからその期待に添うよう応えたい。それも東変朴のおかげだと感じてしまう自分の心があるのだから、それだけでも東変朴に偉大さを感じてしまう。
ピンチこそユーモアにできるとここで学んだ。
東変朴もここで生きたコメディアンなのだ。
「やっぱり、東変朴さんかなあ。軽くてちょうど打ち上げるにはよさそだし」
「あ、ああ、ダメダメ。東変朴じいさんは打ち上げ本番前の試用の時点でもう天までいっちゃったから。落ちてこないってことはどっかでひっかかってるみたい」
目を真っ赤にしたばぶうが言った。
僕はそれを聞いてああ、そうかなどと言い笑う。
この笑いなのだ。
死んでまであの人の御意志を汲んでその死で笑いをとらせていただきたいと思われるような人間になりたい。
「雲の上って居心地がやっぱ良いらしいからね」
近くで一緒に笑った者がいると思ったらピンハネ嬢であった。僕とばぶうの話に頬と鼻を赤くして入ってきた。いつも明るかったこの姉のこんな顔を見るのも初めてなことだ。
結局、この日誰も働きに行こうとしなかった。
流石に、朝ご飯のおにぎりは気付いたときには誰かのボケと共にノリで各テーブルに運び込まれたが、畑にも舟にも牧草地にも向かっていく者はいなかった。まず、日替わり自己申告で就くことになる今日のMCを誰もやろうとしないのである。もうすぐだと一周回って自分かもと思う人間で自己申告をしてくる者も特にいなかった。
誰もが広場で立っては座ったり歩き回ったりを繰り返している。
何かをしようとしている。
「あれえ? そういえば」
太郎―Nの声である。
不毛の会話さえも聞こえなくなり何にもできない焦燥感と変な静けさで満たされたその時間空間へ突如そのよく通る声を以て切り込んできた。
「なんかこの前さ、海底に沈んでた埋蔵金の箱を引き当てちゃったんだよ」
何人もの息を飲む音が聞こえた気がした。
「埋蔵金の箱だって?」
「なんだってそんなものを引き上げちゃったんだよ、どうするよ」
近くにいたえんぴつ魔人らが話に食いつく。
「引き上げたはいいけどよ、どうも偽物らしいのよ」
埋蔵金の箱を嘘前提で進めているのは分かるのだが、嘘前提である以上偽物も何もないだろうよ。
広場中心の椅子に座っていた太郎―Nは立ち上がると、腕を広げながら辺りを見回した。
顔までよく確認できないのだが、薄ら赤い。
「だ、だからさ、その、なんだ。そうもしも、その持ち主みたいのがさ、この島までやってきて、俺の埋蔵金箱が流れてこなかったが、お、あるじゃねえか、なあ、中身はどこにいったんだよなんていう展開になったとしたらマズいと思うんだよね」
太郎―Nの口元が緩み、笑顔がそこから漏れると太陽の光が一筋その顔に注ぎ込まれた。光が当たって初めて今日の太郎―Nの衣装が前にMCをやったときステージに立っていたものと同じであることに気付く。
そう。
そう、そういえば。太郎―Nの服、というより視界に映っていた太郎―N全体を見渡すことが容易にできることになっているのに気付いて初めて空を見上げたのだ。なんと、この島に雲が出ているとのである。島全体からいつも通りの光や熱を奪ったその灰色の覆いは笑いを求めようとしている島全体の雰囲気に居づらさを感じたのかわずかばかり光を提供してきた。
「だからな、なんだろ」
光の量が増す。
他の人たちはこの天候に気付いているのだろうか。晴れていると思われた自分たちの頭上はいつの間にか雲で覆われ、僕らを照らし出す基がいなくなっている。
さっきまでは雲はなかったのである。朝起きてからずっと外にいるわけだし現にばぶうと打ち上げ花火の話をしたときに空を見上げたとは雲など一つもなかっ……
いや。
意識なかっただけかもしれない。
いつも訪れている空、あえて見上げることもなかった気がする。
「そうだよ、早いうちに海に捨てに行った方がいいかなって思ってさ」
太陽。いつもこの島で出ているあえて意識しなかった太陽。意識しない間に隠れていた。
「皆で海に」
家屋の気がしなる音がした。どこかは分からない。
数秒、太郎―Nが話し始めた時以上に沈黙がやってきた気がする。
「そうだ」
「それしかないな」
誰かの同調が聞こえると、次々に声がこだまし始めた。
「行くしかない」
「海だ」
木更津和尚が突然走り出すと、それに負けじと七歳になるMr.よだれ(みすたーよだれ)や六十七歳になる祐太じゃない(ゆうたじゃない)が後を追った。
ばぶうが立ち上がり、僕も立ち上がった。
意識するでもなく足が動き出す。
行かなければならない。どこだ。そうだ、そう。それは海だ。
海
歩け歩け歩け。
伊東春雨やヒノエ馬子が前を抜かしていく。
ああ
いく場所は海。
「バカ、発起人を置いていくやつらがあるかよ」
後ろで聞き覚えのある声がしたかと思うと、太郎―Nがすぐ脇を駆け抜けていった。
「バカ、ひきあげた埋蔵金箱を置いていくやつらがいるかよ」
トンチン坊や髭達磨らが逆走していく。
向かって他と違う動きをするものとして僕はそれを目で追ったが、すぐ近くを歩いていたばぶうがそのまま向きを変えなかったため僕の体にも電気信号は送られなかった。
足元が泥から砂利に変わっていく。
木々が道を作り、この島に住む動物たちがそこを歩む。
同じようにして……
同じようにして僕はここへ来たのだ。
外部に剥き出しになった粘膜組織が全て潮によって狂わされ頭の水分も全身の電気イオンもすべて持っていかれた状態でばぶうとえんぴつ魔人に囲まれ迎えに来てくれたここの島民全員が全く関係ない顔をして、関係ない話をしていた。先頭にいた東変朴。
前の人に突っかかりながらも、海辺へ到着する。
僕の漂流した場所から少しズレて停船所はあるのだが到着すると、確実にいつも以上に船の数が少ない。
遠くを見ると既に小舟が何隻か出てしまっている。
舟付き場を見ると、ちょうど十人が乗り込んで櫓を滑らすところであった。この島の何割は既に海に浮いているということだが、何をやっているのだ、こいつらは。
五番目の舟で僕もばぶうと共に海上へ出る。
四隻まとまっているところへ着くと、皆顔を見合わせた。
「あれ、どれ沈めるの?」
「そういや、ないなあ」
「俺? お前?」
「てか、何か沈めるんだっけ」
このやりとりを老若男女、とくに最初の船へ乗り込め単は走ることができた若い男連中だから見ていても笑ってしまう。女性陣もツッコムでもなくこのやりとりを見ているのだ。
結局。トンチン坊や髭達磨など走り出すのが最も遅かった一団が追いつくまでこの不毛なやり取りはずっと行われていた。
最後の一団に取り囲まれて埋蔵金の箱はその波と共に揺れていた。
最後の一隻が来るまで九隻の舟は少しずつ集まってきては大きい円陣を組んでいたのだが、十隻目は誰か何を言うでもなくその中心へ入ってきた。波は均等にどの船をも揺らしているにも拘らず、埋蔵金の箱を乗せた箱はゆっくりと進んできた。オールは動いていない。
このまま儀式にうつるのか。
この靄舟を中心として一人一人が弔辞を述べ自分と共有したその時間を思い出すのだろうか。いや、そういえば
東変朴の家族は誰なのであろう。
この島で過ごすことによって、まだMCにもならない十五歳に満たないような者たちであれば、寝床へ帰っていく時などその母親、父親、兄弟姉妹の関係くらいは分かったが、子供がMCの年齢に達した者以上の親ともなればその関係は全く分からない者であった。三十台以上ともなればみな親などいないで木の股から生まれてきたような達観をしているのである。
そもそも、血縁関係を知る機会も特になかったのだ。寝て起きればぞろぞろと広場へやってくるだけだし。外に出てしまえば誰もが誰もに同じような態度で接するのみである。知る必要がなかったといっても語弊はない。
真中に浮かぶ船を眺めたところで親子関係が分かりそうもない。トンチン坊は六十くらいいっているから息子の可能性がない事はないにしてもそういった雰囲気にも見えなかったし髭達磨も七十近いから可能性としては同じだ。いや、違う違う。この男の父親であるはずはないではないか。この男は僕と同じ流れ者、この島に父親がいるはずもない。
だが……
だが、血縁者がいるかもしれないこの舟上で現に東変朴の最も近い位置にいるのだ。血のつながりがある家族を差し置いてでも、この島の家族の一人としてあそこにいる。もし、あそこに僕がいたとしても誰も何も言わなかったに違いない。大事なのは東変朴と家族のつながりを作ってやることではなく、一人一人の東変朴とのつながりを思い出すだけだ。家族は他人を差別する最初の機関である。
そう考えると、誰が血縁者かを探すことなどどうでもいいことに思われた。ここで東変朴の子供が分かったところで僕と東変朴との関係が変わるわけではなかった。息子がどういった顔で父親の死を悼むのを観察するよりかは抜け殻となってしまったコメディアン東変朴が入っていた、肉体という捨てられた乗り物、遺骸を見ていたかった。
トンチン坊と髭達磨が立ち上がる。
大きめの波が一つ来てよろめいた髭達磨とアントリートメントが支えた。埋蔵金の箱は少しずつ船端へ引っ張れていったが、上の方を支えても折れ曲がることもなかった。舟が開くこともない。
この島では死者は存在しない。
前に僕は東変朴からこういった話を聞いたのである。
死者の魂。そんなものはどこにも存在しやしないんだ。後に残った者が寂しいからそういった名前を付けて、まだここにいることを信じて止まないに過ぎない。呼吸をして食を摂り排便をする。そういった生物が活動を停止して、なお見えない姿となってどこかにいるなどありえないだろう。生き物は死んでしまったならば復活しない。その存在がここに残ることなどありえないんだ。だから島の人間はかつていなくなった人間の名を誰も口にはしない。そんな見えないことを口に出すこと自体が不毛な争いの始まりなんだ。ここでは生と死の概念はみんな認識している。一方で死んだ者のことは忘れようとしているのだ。死骸がなければもうその存在はない。存在して動くものがない以上存在はしていないのだ。魂がどこにも宿ることもあり得あい。音によってまだその存在を信じられることもあるのだから使者の名を口にしてもならない。口にしたところでそれは一種まやかしを作っているだけだ。骸が消えたとき、完全に死者など消えるのだ。
だから目の前のこの東変朴が消えた時、僕はこの存在を忘れなければならない。いや、僕だけではないだろう。ここにいる島民誰もがそう言った教えを持って生きてきているのだ。死者は存在しない。
「あれっ?」
九十九から百二くらいの視線を集めたトンチン坊が舟の上で呟く。
「この埋蔵金の箱、昔の知り合いの顔に似ているな」
「ほお」
「まあ、いっか」
数秒後、
ゆっくりと匣は沈んだ。
波紋が周りを取り囲む九隻の船までたどり着きその後戻ってくる波の強さを感じるまでに沈んでいくそれの姿を確認することはできなくなった。
波の音が聞こえる。
水の中を動く何かの音まで聞こえてきそうであった。
「やだねえ」
声にならない声が二重に聞こえて、振り向くと、僕と同じ舟に乗り込んでいた。椿オト女が手で覆っている。
「この時期に花粉症が出てきちゃったのかねえ」
そのまま手の平は鼻の位置で止まり、盛大になる手鼻が噛まれた。
直後、季節外れの花粉症患者が急増して、笑い声が起きた。
もちろ、僕も罹患したわけであって、ありったけの鼻汁を手に染み込ませ、花粉を排除するために留まることなく噴出した涙まで拭き取った。辺りを見回すと、皆舟の上に体を固定させ、海の水で手を洗っている。どう考えても、お恋ら一体の海水に含まれる塩分濃度が一パーセントは上がっただろう。
呼吸を整える咽び音や調子を戻す喘ぎ音が小さくなってきた頃に「いいぞ」だとか「匣の埋蔵金ここに残った」という野次が飛んだ。その中にはしばらく意識することも忘れていた「うんち」というのもあった。いや、今。今、確実にすぐ隣から聞こえ……
隣を見るとばぶうがもう一度同じ言葉を発するところであった。いや、
お前だったんかい。
誰かがどうしてまだ昼ご飯を食べていないんだという疑問の声を張り上げると船は一斉に向きを変えて、オールによる波を何重にも海に発しながら島へ接近した。
その日の夜、僕がここへ来てから初めて雨が降った。
(完)
ご愛読ありがとうございました。読んでいただき感謝します。三文享楽