いやあ、最初は好きで始めたはずが、もうどうでもよくなり、でも最後まで続けないとこの先も生きていけないから、しぶしぶ続けている。こんなことないでしょうか。ああ、めんどくさい。
三文享楽です。
なんなんですかね、本当の幸せって。
めんどくさいことでも続けてると幸せになれるから続ける。こういうことばっか。頑張ってるときに楽しめなくても頑張る必要ってあるんですか?
これまでの『笑い島』→『笑い島』1、『笑い島』2、『笑い島』3、『笑い島』4、『笑い島』5、『笑い島』6、『笑い島』7、『笑い島』8、『笑い島』9、『笑い島』10、『笑い島』11、『笑い島』12、『笑い島』13、『笑い島』14、『笑い島』15、『笑い島』16
この小説は全20回の連載予定です。
気が向いたころに来ていただければ幸いです。
『笑い島』17
6の続き
姿は見えないがさっき見かけた木更津和尚のじゃれあう声が聞こえる。
「だから教えてくれる人に敬意になんて払う必要はないさ。もし、敬意を強制してくる教育者がいたら、それは上役の傀儡か奢りたかぶりたい欲望者だね。人間笑って生きてりゃいいんだよ。十歳過ぎれば立派な大人だ。もう一人前の大人なんだよ。もう口出しなんかせず、自由にやらせるべきなのさ。威張ってはいけない。一人前として扱う。もし、威張ってたり、堕落したりすりゃ村の掟をなんとなく示すのさ。そうすりゃ子供は周りを真似する。面白いことをやって、誰かが笑えばさらに笑わせたくなるのさ。人は生まれながらにして、良いとか悪いとかじゃなく、生まれながらにして、刺激を求めて笑わせたいのさ。思春期に忘れた心が芽生えたとしてもそれまでの経験と村の掟、毎日行われる笑いの宴でほっときゃ自然に治癒さ」
「どーん」
ばぶうの声が聞こえなくなると同時、いや、まだ聞こえている最後の方にいきなり、爆発音が耳を劈いた。
一瞬、何が起きたかもわからなかったが、爆発音と共に体は揺れ、視界の傾きと共に上から何か触ってきた。
「木更津和尚」
「あ、血液さん、アハ」
上から落ちてきた木更津は僕の背中から頭を通り越し、目の前に落ちてきたようだ。長髪を掻き上げると万遍の笑みを浮かべて胡座をかいている木更津がいた。
そして、僕の上を見ている。
「どーん」
確実に先ほどより低い音を感知するや、背中に気配を感じる。気配の後は、背中、首、頭とそれぞれに少しずつ衝撃も痛みも圧迫も感じるまでもなく前進が潰された。
薄れる意識の中、前に落ちることなく、僕を押し潰した状態で左に旋回し、落ちた。目の前にいる木更津和尚の顔が消えていき目の前が真っ向になった。
起きた。
なんかの衝撃で目が覚めたのかと思い、気絶する前との違いは視界が良きになっているというだけで他には至って変化など見当たらない。現に目の前にいる木更津和尚の笑みもそのままで重みを感知してから地面に倒れるまでの数秒しか実質、僕は気絶していなかったようである。
一体、どういうことだ。
意識を取り戻した僕は早速、情況を確認しようと物が落ちて行った方へ眼をやると何かが落ちていた。
「あれ、交通事故か何か? え?」
白々しい声がしたので見上げると、ばぶうが近づいて立っていた。
むくむくもぞもぞうようよと搖動している物体を睨みつけていると地面側へ揺れたと同時に起き上がり顔が現れた。
「今、鬼ごっこをちょっとやってね」
「ああ、そういうことかあ」
「いいじゃん、僕もやりたいなあ」
「おい、調子に乗るな、ばぶう。この衝撃を知らんだろ」
「鬼ごっこ……なんか二人とも僕に当たった気がしたけど」
「走っている途中でちょうどあったからね。クッションみたいなものかと思って飛び込んだの」
顔をさらに丸くさせて笑っている。
「で、私はそれがルールかと思って飛び込んだのよ。クッションみたいにぼーんってさ」
肉豆腐もまた目尻に皺寄せ、口角をあげて笑っている。
楽しそうだ。
こちらも嬉しくなるレベルの破顔である。
ただ、
ただ、肉豆腐さん。あなたは島一番の巨漢なんですってば。乗られてみると、今まで一度も受けたことのないレベルの刺激がありましたって。
「そんなルール、鬼ごっこにないはずなんだけどなあ」
少年と中年女性の笑顔を見て被害者の僕まで笑ってしまい、とりあえずツッコミが口から出ていた。
ツッコミか自分たちの行動かどちらか分からないが今まだに声をあげて笑っている。思わず、僕もまた笑ってしまう。僕のツッコミならいいのだが、僕の……上を向いて
顔から血の気が引いていくのが分かる。
「どーん」
案の定、よける暇もなくばぶうが背後から降ってきた。
そこからまあ、一対三の鬼ごっこが始まったわけだが、追いかける僕を見た農業をしていた西空日の出が走り出したのを皮切りに全員が僕から逃げ始めて川での水浴びまでひたすら追い掛け回す羽目となり、一日分の体力を使い果たしたようになった。
午後の労働は他の誰もがそうしているように心の赴くままに仕事を選べるようになって来たので、野菜洗いや洗濯物干しなど神経を使わず、それほど重労働でない者をチョイスした。
そして最後、料理の盛り付けに向かうところで尻丸につかまったのである。
島民の中でもなかなか目立つハゲ具合だ。
こちらを見て口の端に笑みを浮かべている。
「え、何々、なんでそんな私の言いたいことが分かるの?」
「いや、僕何も言ってないですけど」
「そうだよね。コントしようと思うのよ」
「ああ、そうなんですか」
キッチンへ向かうところで僕は突然話しかけられたのである。
「いやね。やっぱコントっていうのも自分の好きな世界観を考えるためにはやっておいた方がいいと思うのよね」
「そうですかねえ」
「だからって下ネタばっかりならネタの幅も狭まってきちゃうものだよ」
「あれ。別に僕、下ネタとか好きな世界観でもないですけど」
「だってどうなのよ。下ネタしか言わない人って、人間の度量の広さを疑うよね。家族で見てるお笑い番組にあの女芸人なら抱いてみたい、あの芸人になら抱かれてもいいだとか子作り励むだなんてのが出てきたって全然笑えないよ。むしろ興ざめ」
「ん、んんまあ、そうですよね。なんとなく気まずい感じにはなちゃいますよ」
気付いた時には完全に無意識のうち歩くのを止めていて、調理場からは大方離れた場所で尻丸によってさらに遠いところへ誘われている。
椅子を持って出てくる人がいる中、これでは完全に逆走ではないか。
「うんち」
「ぷっ。……え?」
「あ、ほら。ほら、ね? 今笑ったでしょ」
いや、確かに、笑ったけれども。
何を言っているのだ、この男は。
「ね、ね、ね? 笑ったよね」
「ええ、笑いましたよ。唐突に何言ってんだって」
「でしょ、笑っちゃうんだよ。急に変なこと言われると。でも、さ、セック○……ほら、笑わないでしょ?」
全然面白くはなかったのだが、変な沈黙ができてしまって、つい笑いが漏れてしまった。
「……笑っちゃいました」
「笑っちゃったねえ。まあ、仕方ないか。いや、ただ私が言いたいのはさ。人はさ、うんちだとかおならだとか小学生レベルの下ネタを唐突に言われると笑ってしまうってこと。これがもし、性行為を匂わせたり、男女の交わりみたいなのになったりすると、笑われなくなるの」
「ん、うんん。まあ、それも人によりけりだとは思いますけど、確かにそれは一理あるかも」
「限界もこの境界なわけよ。確かに最初はえげつない性的な下ネタも言えば人は笑うかもしんないさ。でもそれは、やってしまったなという背徳感あっての驚き笑いで長続きしないよ。ひどければお笑い自体が嫌いになっていくかもしれない。端っから下ネタに嫌悪感ある人もいるからね。でもおならおならうんち、うんちぶりぶりちんちんふーりふーりうーんちぶりぶりぶりりぶりり、うんちもおならもぷっぱかすー、ほら」
極力真顔を装うとはしたのだが、思わず笑ってしまった。ここまでおもむろに連呼されてしまうと笑わないことはできなかった。苦笑なのは確かだが、馬鹿らしくなって口元が緩んでしまうのは確かだ。
「笑ったよね。呆れてでも笑っちゃうんだ。たとえ、うんちやおならで笑いを拒絶している者にもこれを笑わせようとして使っているのは分かるはずなんだ。だからたとえ、面白いと思われなくても、こちら側が面白いこと言っているんだという態度でもっていきゃ、笑わせられるよ。くだらないって笑っちゃうんだ。下ネタだからくだるんだけどね。でも、これが性行為とかならば生理的に無理な人は絶対変わらないね。くだらないでも済ませられないから。だからね、適度な下ネタはいいけど行きすぎたらダメってことなんだよ」
額に汗を光らせて語っている。サイド部分以外は額から後頭部まですべて禿げ上がっているため、よく分かる。
「いやね、いずれにしろ僕は下ネタなしでいいんですけどね」
「なるほどね」
口の端を曲げて、尻丸が僕を見据える。
「まあ、私がどんどんボケるから血液君はそれにツッコミゃいいよ」
どうしてもなのだろうか。この一家はネタ合わせを事前にしない。仕事場でよくネタの話をしながら仕事をこなしている者を見せかけるのだが、ばぶうにしろ尻丸にしろぶっつけ本番だ。ばぶうとの初舞台後にやったえんぴつ魔人とコントをやるときは進んでえんぴつ魔人の方から打ち合わせをして来てくれた。
いや。
いやいやいや。
僕から行ってみても良かったのかと思いついたのだが、僕自身相手が言うまでネタは考え込まないというこの一家の一員となってしまったのではないだろうか。
7
思い出すだけでも顔から火の手があがりそうである。
だが、散々スベリ倒していたはずの当の本人がこの鼻唄交じりなのだから、僕も堂々と何事もなかったようにしていなければならない。
笑いは取れていたのだが、失笑感はありありだ。
そもそも自分たちの意気込みからしても失笑ならばとれかもしれないといった具合なのだから来るべくして来た結果なのである。以前ステージを観客側から見ていた尻丸のコントや漫才であっても一回程度だけだった下ネタが、今回はオンパレードになっていたのだから全うな笑いを狙えるはずでもなく「ひど面白い」という笑いを少し得ただけになる。割合、温かい雰囲気でいつも笑ってくれる会場ではあるが、失笑されたとしてもしょうがない。結果的にほぼうんちうんちしか言っていないのだから文句一つ出ないものだ。ここへ来て初めて会場からの野次がありがたいものであることも知った。
台詞を言うことによって直接スベっていた感があったはツッコミ役の僕ではなく尻丸のはずなのだが、この何ともない顔なのだから見習らなくてはいけない気持ちになる。
「スベった時にこそ、心臓に毛が生えていき、打たれ強い不屈のコメディアンになれるのだ」
舞台を降りてすぐ尻丸が言っていた台詞である。
言われてみると、そんな気もしないでもないのだ。空振りの恥じらいを味わってからこそ今度は確実にこれを超えてみせるぞという気持ちになれる。狙った笑いをとれなかったときの悔しさからいかに立ち直るかがより面白くなれる芸人なのである。
人生はどのみち役者なのだとどこかの誰かが昔語っていたのを聞いた気がする。どこへ行くときでも他者に対しては必ず態度を変えて接しているはずである。親に子供、職場や学校の先輩に後輩、初めて出会う人といつも会う人への態度はいつだって違うのが当たり前であって変えられないことはむしろおかしいということになる。だからその場の役割によってはひどくスベることになるかもしれない。その場で思わぬスベりを実感したとしてもその人ではないのだ。それを感じて他人のスベッたのを感じられるのは自分自身がスベッたことのある人間だけなのだ。それを強く感じたことは確実に一度剥けたのだ。
だが。舞台を降りて、そのまま空いていた席へ向かいえんぴつ魔人や佐藤塩分にいじられても「いやあ、ウケすぎちゃった」とか「最高のネタだったから今後これを超えられなくて困るな」とか恥ずかしげもなく堂々と言い放てる尻丸には頭が上がらない気がした。自分と同じ苦しみを味わった者が不屈の精神を以て何事もなさそうにしているのを見ると、やはり尊敬してしまうものなのだろうか。神経の強さに憧れるものなのだろうか。
超越的部分があるのだ。
だが。午前中は久々に漁業に行ったのだが普通に今まで通り接している皆が心の中で僕の大惨事なスベりを笑ってやしないか不安でならなかった。昨日の失態をこそこそと陰で笑っていないかが心配だった。でも、もう何も覚えていないようである。いや、覚えてはいるのだけれどもお笑いはお笑いと誰もが割り切ってくれているのだ。くれているというどころではない。もっと言えば誰もが笑いを取ることの大変さを知っているのである。それも含めてこの島の人間は自分でも恥をかきつつ笑っているのだ。
漁業はそんな僕に特別な取り扱いがあるでもなく以前に二、三度挨拶を交わしたことのある者たちと舟を出してひたすら釣りをしているだけだった。海の中に居ながらただ海を眺める。世界中で敷居のない海なのにここまで違うものかとよく驚くことがあるのだが、今まで僕が見てきた海の中でも格段と飛び抜けた透明度を誇る海水である。僕の身長の何倍もありそうな水深の海中には色鮮やかな魚が泳いでいて釣糸は時々引っ張られる。
五人で出発した手漕ぎの小舟では今まで釣った魚の話が交わされた。不思議なのはやはりみんな魚の名前を区別していることである。スズキ、カサゴ、メバルにオコゼと僕などにはこれっぽっちも違いが分からない魚の種類を知っているのである。スズキやオコゼという名前くらいは聞いたことがあるのだから出鱈目でないことは分かるのだが文字すら使われていないこの島で日本の本土で使われている魚の名前がしっかり認識されているのが興味深かった。
時々、ひっかかる魚を処理してはまたがつがつと求めに行くでもなく釣糸を垂らすだけである。魚の特徴や味の比べ用など交わされる情報をただひたすら聞いていた。
僕もここまで魚に詳しくなって釣りという漁業すらも楽しむことができるようになるだろうか。魚自体の味や合いそうな調理の仕方を語る太公望たちの顔はどれも輝いていた。
魚の話を延々として岸にまた戻っていくときに分かったのだが、思いがけず乗り合わせたうちの一人が以前から僕が心の中でずっと探していた島民だったのである。僕は語りたいという欲望から急激に心臓が高鳴るのを感じた。何から聞くか。何から話すか。
当然話してはいけないということではないが語ることが何となく後ろめたいような気もしてお昼を摂った後に二人で共に木の実採集に出かけることにした。
「まあ、でもずっと昔からもうここの島に住んでいたような気がするよ。ここで生まれてここでずっと育ってきたたみたいな」
「僕が想像できないくらいの長さですよね」
「そうだねえ」
髭(ひげ)達磨(だるま)は決して名前負けしない顔であって下半分が真っ黒である。その髭を撫でた。
「だって、もう結構前よ。もうここへ漂流してかれこれ五十年くらいは経つかな。ん? ちょっと待てよ。今六十七歳で、色々あった末に尋常中学を卒業したのが十九。翌年の年に流れ着いたのだからぴったりじゃないか」
「ああ。ぴったり四十八年にもなりますね。うん。再来年にお祝いでもしましょう」
頭をあげると冷静なツッコミしか思いつかなかったのでそのまま口にした。
下の方になっている木の実を採るために頭を下げてもぐりこんでいると頭に血が上り、ツッコモうと顔をあげたところでくらくらしてくる。
「まあ。でも最初はやっぱ葛藤があったなあ。いや、なかったか。よく覚えていないわけどあった気がするな、うん。当時、まだ戦争中だったから戻るに戻れないわけよ。病気病気で兵役を延ばしていたからさ、ただでさえ、世間の目が痛かったし、この島へ迷いついてしまったとはいえわざと迷い込んでほとぼりが冷めるまで待っていた敵前逃亡だなどあらゆる罵詈雑言が来るだろうさ」
そこに堂々と座り込んでいた髭達磨と目が合うと、僕も見習って尻をついた。座ってしまえば頭を首から下げる量が大きく変化しなぜ早々とこうしていなかったのかと悔やまれた。この島で暮らすようになって初めて外に出た頃は昼間にずっと炎天下にいると頭がくらくらすることもあったが、体調の善し悪しによって今日はもう休んでいた方がいいなどと自分で判断できるまでに至った。
「じゃあ、戦争終わってまだ家に帰ってないのですか」
「まあ、そうなっちゃうよね」
「帰りたくはなかったのですか?」
「ううん。どうだったろ。そりゃ父母に無事を伝えたいという気持ちはあったさ。ただね。ただ、伝えたところでっていうのも考えたんだ。そりゃ、僕の生還を泣いて喜んでくれるだろうとは思うし、逆に帰らなかったら残してきた僕の形見を抱いて大泣きしてくれるかもしれない。だけど、五人兄弟の二番目、貧窮状態でその日食う飯にも困った時代だ。働き手と同時に食い扶持が一つ減ったまま帰ってこないっていうところでっていうのはあったよね。それに」
二人とも地べたに座り、左手で果実の近くにある歯を弄んでいるだけの状態にて同じ高さで目が合う。
「何よりもここでの生活が気に入っちゃってさ」
黒髪の中に埋もれている唇を歪ませてにこやかに笑っている。
「別に積極的に残っていようなんていう気持ちがあったわけでもない。ただ、元気になるまでと思っているうちにここの独特な空気に何を急いでいるのかていう気になるんだ。なんだか、ここの島の人は何も急いでいない。人生の目標が高いでもない。それでも毎日を楽しんでいるんだ、笑って楽しく過ごすというのを根本に据えてさ。良く生きようという目標のために自分を押し殺すというのがなくとも良く生きられているんだよ。これで何が悪いんだってね。もしかしたら、これは血液検査君と同じような気持ちかもしれん。分からんがね」
そうなのかもしれない。逆によかったのなど一度だって思ってはいない。
いや、思わないようにしているだけに過ぎないのかもしれない。
現に帰ろうと行動を起こすでもなくここにいる。
「まあ、これは日本という歴史を歩んだ国の一部であるからこそ言える話だがね。こんな笑いを中心にしている総コメディアン島なんていうのが昔どこかに浮かんでいたとしてもそれは絶対にどこかの軍隊に支配されていただろうね。人間が集まれば絶対に摩擦は起きるんだ。少人数だってそう、規模が違うに過ぎない。その中で理想的な暮らしを求めるとなれば絶対に役割分担を決めて外部からの攻撃を防いでくれる軍隊や警察を設置しなければならない。となれば命がけで守ってくれる彼らに劣らないくらいの恩を返さなければってなるよ。分担は必然だね、人間の進化だよ」
そうなのだ。
まさに僕がうっすらと感じていたようなことをこの男は言い切った。ヒトという進化の過程ではなく人間の進化の過程においては戦争の歴史を避けられずにはいられない。そもそもが弱肉強食の動物であるという誰にでもわかるような前提条件を抜きにしても身近な人間と楽に過ごしたいというよっていう気さえあれば理論的に考えてどうやっても戦争には行き着くのである。その理詰めで考えられた悲惨な結果があって今がある。
それを考えられる世界において僕は絶望にまで至ったのだ。
最高の時代であるにも拘らず、僕は毎日の社会の仕組みに疑問を抱いていたのである。
極論は嫌だが少数が故に成り立つこの島の平和なのであろうか。
戦争時代から迷い込んだこの男もこの島の理解に行き着くまであらゆることを考えたに違いない。そして、この島を選んだのだ。
黒い髭から手を離して、僕からも目を離した。
「にしてもなあ」
白くなりつつある眉毛をこすりながらまた果実の木へ手を戻す。
「考えても妙なだよなあ。髭達磨だよ。意味わかんなくもないけどさ、現にこの面だし」
「やっぱり元々その名前ではなかったのですか?」
「そりゃ当り前さ。どこの親が自分の子供にこんなふざけた名前をつけるのさ」
枝から果実が一つ落ちた音が響く。
「最初は自分の名前を名乗っていて、みんなもそれで呼んでくれていたのだが。ちょっと、わしもふざけた名前、芸名というものをつけてみたくなってな。それでまあ、見たまんまをね、こうつけてしまったわけよ」
それと比べて僕はどうだ? 名を尋ねられた最初からふざけたことを言ったではないか。これっぽちもより楽しい名前などを考えてこれを選んだわけでもないのだが。いや、でも。今から思えばよくこんなことを口にできたものだ。自分らのことはなしにしてこの島の人間でない人間、イコール常識的な名前と捉えていた彼らにとって驚きであったに違いない。
「不思議だよ。ここで髭達磨として生きることによって元の名前というものが分からなくなってきちゃってさ」
元の名前……。
「最初思い出せないということに気付いた時はショックだったがな。次第にそれすらどうでもよくなっていたよ。わしにはわしなりの名前があってそれを呼んで認識してくれておる。別に何一つ不満なことはないさ。名前があってわしなのではなく、ここではわしがいて適当に名前を付けているに過ぎない。こんなことも考えなくていいんだ。考えなくてもいいことまで神経質に考え込むなんてせず、誰もが笑って生きようとしているここが何よりもユートピアに思えてきたよ。一人一人が楽しく生きようと思っているからこそ成り立っている理想郷ではないか。平和ボケだとか悪しき停滞だとか色々批判もされそうな思想だけどさ、なんと揶揄されてもわしはここに居たい」
僕の名前は何であっただろうか。
血液検査で呼ばれているのだから血液検査でいいのだろう。
ユートピアか。
「今になれば半分、いや八割以上の人間がここ五十年で入れ替わってしまったのだが、村の雰囲気は何一つ変わっては居ないよ。昔からこの雰囲気でのんびり楽しもうというスタンスは少しも変化してはいないさ。顔や声、声の張り方や間の取り方など一人一人はみんな違う人間さ。でも、それぞれ似ていると考えることができても、らしさを求めていないから少しずつ違うさ。だから別だよ。カテゴライズする必要はない」