自分の笑いのツボがおかしくなってきたと感じていませんか。
前に笑っていたようなくだらないことで笑えなくなり、人の不幸やみっともなさ、呆れて笑ってしまう。
こうなったら、もう来るしかありません。
笑い島の管理人、三文享楽です。
これまでの『笑い島』→『笑い島』1、『笑い島』2、『笑い島』3、『笑い島』4、『笑い島』5、『笑い島』6、『笑い島』7、『笑い島』8、『笑い島』9、『笑い島』10、『笑い島』11、『笑い島』12
この小説は全20回の連載予定です。
気が向いたころに来ていただければ幸いです。
『笑い島』13
4の続き
それが通じたのか、目が合った東変朴はいきなり逆らいがたくも自然とできてしまった皺全てを顔の中心に寄せると、飽きたと言って飛び立った。鍬を両手で掴み僕がようやくたどり着いたここまでより更に後、ばぶうの方へ向かって右の方のラインに沿って耕し始めたのだ。
観客を僕一人に設定して、一肌脱いでいるのか。ところどころ、一回転勿論でんぐり返し立ったまま地面と水平に一回転して、畑を耕している。あの歳では心臓にも負担が繰るのではないか。
これがおちるな?
やっぱり僕の一人の見物人に対しても笑いをとろうと体を張る芸人なのだ。
他人を誘導して笑いを取るだけでない。偉そうなこと言っといて自ら笑いを取りに行くこの生き方にこそ僕は何とも説明のつかぬ尊敬の念を抱く。あせったところで何になるという達観した気持ちになれる。笑いあってだろう、ゆっくり。あせる気持ちの消滅と共に疲れも消え去っていたので再び自己のペースで鍬を振り上げることにした。
動き出してもう一度疲れてきたところ、仕事は終わった。
別に誰かが止めようどうこう言ったでもない。僕が体に付加を感じてきたちょうどそれくらいにまわりも動きがそぞろになって、話を始めたのである。
体力に自信があるわけでもないが、二十歳過ぎ程度の僕でこの疲れ具合なのだから他は平気なのか。東変朴は休みながらとはいえ、なかなかの重労働である気がする。
各々が鍬を片付けると、風呂場といわれているところに連れて行かれた。本当にただ風呂と言われるだけのところであってトイレ同様のオチがまた使い回されただの川である。森の茂みの向こうにもう一本流れる川があるらしく女風呂はそこに敷居で区切られている。男風呂にも敷居の設置されていたような跡はあるのだが、結局はただの川であるのだ。そうなってくると女風呂もどういった様子かは分からない。
農業組で先に入っていると風呂には途中からえんぴつ魔人もやってきた。
何でも午前中の肉体労働の後に昼ご飯までの間でみな風呂に入ってしまうらしい。誰もが風呂風呂とどう見たって川のことを言っているから頭で一応風呂と認識するけれども僕にとっては川以外の何物でもない。のだが……まあ、仕方ない。流れるある水だからそれなりに冷たいのだが、凍えるほどでもなく、ちょうどいい。
風呂あがりには皆、僕がこの島へ着てからずっと見慣れていた半袖半ズボンのラフな姿に戻っている。
広場へ少しずつ集まりながら先に来たものが昼飯の準備をはじめる。
ここへ来て初めての食事、またそれ以来朝、昼はほとんど同じメニューである握り飯を作る。更に持った大量の梅干、佃煮、柴漬けそれに小ぶりの皿に乗った塩に囲まれて井ひたすら握っている。
昼は座るでもなく、今日の食事当番をやりたいものに作られた握り飯を動きながらあるいはそこらの地べたへ座って食べる程度らしい。木の机や椅子は夕飯前に出すが、そのまま基本的には吹きっ晒しの中に放置されて、朝飯後に片付けられるのである。
風呂からあがってきた老若男女は思い思いに握り飯を食っている。大体半分ほどは自分で食べる分は握っている。入れ替わり立ち代りいくつか多めに握っては飽きたのか立ち去る。後半にきたものが米櫃に残っていないのを確認して、その場に積み上げられた白い握り飯を手に取るらしい。
人口の少ない島とはいえ、これだけの人数が一斉に握り飯をうろうろしながら食べているというのは壮観であった。
午前でさえ明確な仕事分けがなくかつての列島での暮らしぶりと比べると変な感じがしたというのだが、午後は更に遊びのようなものらしい。仕事というものは辛く我慢するものであって我慢して達成すればそれだけ報酬をもらえるものと言う概念をたっぷり教え込まれてきた僕にとっては何となく物足りないような感覚もして仕事も労働もまだやっていないのように感じたのだがこれが義務とは思わない仕事でも労働でもない活動とすればなるほど特に嫌悪感を抱くことなく過ごしていけるであろう。
食べ終わって更に休憩にも飽き次第、午後の仕事に入っていく。みなここの島でずっと暮らしでいるものだから仕事の勝手も知っているため気分次第で動き出せる。セルフだというのに誰もがサボることなく働くというのが何よりも偉大にあり最も根源的な協力というものを覚えた社会的動物のように思えた。おちるなという掟の文句がそれほど強いのか。いや、やはりそもそも仕事という義務的な概念が全くないのだろうか。
午後は何をするのか分からなかったが、ばぶうが近くにいる。
「よし、じゃあ、妖怪退治でもしようか」
「ようかい? 何よ、それ」
「知らない?」
「え、あの何か」
「用かい? って違うよ」
「そうだよ、違うよ。僕は今、そんなこと意図してなかったって。あの、さ、夜とかに出てくるような説明のつかないものか」
「んん、まあ、そうかな。なんでいるのか分からないもん。この前初めて会っちゃってさ」
この島にもいるのか、そんなもの。というより、あるのか信じられる風習が。
「どこで見つけたのよ」
「海の中。ていうよりさっきの風呂場でも見た気がする」
「ええ? そんなにいるものなの? なんかこう水中限定生物みたいのとかってこと?」
「そうだね。普段は水の中を悠々と優雅、あ、いや、うじゃうじゃと意地汚く泳いでてさあ。人で陸の上にあがると、じっと、ひたすらこっちを見ているのね」
「どういうことだよ。水陸に存在する両生類的な妖怪かよ」
「そうなっちゃうよね。でも、陸にあがってしまうのにじっとただ見ているだけでこっちが何もする前に無抵抗になっちゃうの。でも、まあきっと振りをしているんだろうね。だってたまに食べると骨で攻撃をしてくるの」
「へえ。……ん、食べる?」
「でまあ、形だって人間なんかと全然違うんだから。こう、なんていうか、背ビレとか、尾びれをつけてさ、おまけにうろこで全身が覆われ」
「ちょっとちょっと、待ち待ちな」
「な、なによ」
「魚とは違うの?」
「ん?」
「ん? いやいやだって背びれにつけてさ。そんで他の特徴と合わせてもさあそれって魚」
ばぶうが立ち上がったので、僕もつられて立ち上がる。
「いや、でも見た目がすごいんだから。人間とは全然違うし、腕も足もなくてさ、ただ知らん振りして、無の中を泳いでいるだけよ」
「いや、今ので確信してきたけどそれって魚だよね。え、あのこう、こんなくらいの大きさでさ、ちょっと長細くて。まあ、種類によっても違うけどさ」
歩き出したばぶうに隣からジェスチャーで伝える。
「ええ? 何それ、妖怪じゃなくて? 形も違うのよ」
「そりゃ違えよ。だって、仮によ。仮に、嫌でしょ? 人間と同じような四肢の生えた哺乳類見たいのが、素っ裸でたくさん泳いで出でたらさ。それにうじゃうじゃとか言い出してたけど最初、優雅にとか言ってたじゃん。まさに、それよ。魚は悠々と気持ちよさそうに泳ぐのだから」
「ちょっと分かんないなあ。妖怪でしょ、なんでいるのか説明できないし」
「そりゃ、なんだってよ。人間だって説明できないでしょうが。え、え? 魚とかって教わらなかったの? あの、僕がいうのも変だけど、農業と畜産、後もう一つって漁業でしょ、ね?」
「うん」
「そこで獲るのは?」
「魚」
「ホラ、それよ。それ。え、魚ってのは知ってるの?」
「そりゃ、知ってるわあ、暮らしてるなら常識やろが」
「えええ。急に怒っちゃうのかあ」
「これやろ」
歩いて無意識のままばぶうについていくと、台所にいた。大量の魚が籠に入っておかれている。
台所には二人、既にいて、食器を洗ったり、魚のうろこを落としたりしている。どちらとも昨日、今日のうちに名乗りあって自己紹介はしたのだが、ちょっと思い出せなかった。いずれもぼくらがきて会釈をし合う。
「だって一っつもしゃべらないのよ。急にぬるぬるになって、血とか出てきちゃって僕の手が汚れるし。この前なんか、服についたんだぞ」
「そりゃ、調理してんでしょ。食べるためにさ、毎日食べられているじゃない。それを妖怪って言ったらかわいそうよ。毎日海で泳いでいたら、いきなり捕まえられてそれこそ、捌かれて内臓もって行かれちゃうんだから魚としても溜まったもんじゃないでしょうに」
ていうか、まだ続けるのか。
「じゃあ、肉(にく)豆腐(どうふ)さんが悪いってのかい? 海で泳いでいただけの魚を捕まえて、こうやって調理しちゃってさあ。妖怪じゃないんでしょ」
そう、肉豆腐さん。
小太りで三十代くらいの女性である。ちょうど包丁を魚に入れるところで名前を使われてこちらを向く。
「いやいや、悪くはないけどさ、そりゃ食べるために」
「だって、獲ってきた魚からいきなり内臓とっちゃうわけでしょ。優雅に気持ちよさそうに泳いどいたのにさ、いっきなり、こう捕まえて」
「お前、言ってること無茶苦茶じゃねえかよ」
「ねえ、魚捌くのが悪いの? そうなの。肉豆腐さん、こんなこと言ってますよ」
「ひ、ひどいじゃないの」
「ええー」
いや、のらなくていいから魚下ろしといてくださいよ。今、切り開かれましたけど。
「どういうことや」
「いや、だから僕が言っているのは妖怪じゃないってことじゃない」
「ほな、魚ちゃうんやろが、帰れ。とっとと寝ろや」
「そや、帰れ」
「子宮に帰れ」
「いや、どこまで帰るんやあい」
え、お前が最後ツッコムの?
ばぶうでも途中から加わってきた肉豆腐でもなく食器を洗っていた男が最後ツッコンで終わった。
最終的にばぶうはどうもありがとうございましたとまで言った。どういうことやねん。他にも色々とツッコミたいとかがあったが。肉豆腐もいきなり似非関西弁になることとか、多数。
「まあ、魚でも捌くってことになるよね」
「そういうことだね」
水道を少し譲ってもらい、おにぎりの粘つき語にタップリ泥が付いてしまった手wくぉ洗う。
「思わず帰れがでちゃったけど、すっかり、同じ家の人間の気になってたいうことやな」
その途中、ぼそりとばぶうが言った。肉豆腐や食器洗いの男に聞こえないくらいの声量で。
確かに、よく考えれば帰るというのも。
「まあ、昨日までずっと食べていると思うけど、午後はちょっと、これを切り開いて軽くした味をつけておく準備とかしておこうか、この妖怪」
「いや、もういいって」
再び食器洗いの男が急にツッコンできたが、今度は僕の声も加わっている。
何か考えていたような……そう帰るということ。何度か頭をよぎってはその都度ばぶうのボケにつられて忘れている気がする。
「午前は農業やっていても午後になると、こうやって海の魚を捌いたりすることも多いよ。逆に午前漁業に出ていたものが野菜を洗ったり、また、さっきの格好に着替えて薪を割ったりしてね。とりあえず飽きるとよくないからみんな違った類の仕事を見つけ出そうとするんさ」
「へえ」
肉豆腐のやり方を見よう見真似でやってみた。意外なことにはばぶうはこれも平気でできているのである。肉豆腐とは少し手順が違うところもあったが、結果的に同じような出来栄えとなっている。
かつての生活を思い出してもこの年代の男で、少なくとも僕の周りにいるこの年代の男で多くは魚を捌くことなどなかったのだからこの光景がひどくシュールに思われる。シュールというのは本来もっと現実離れしている状況のことを表すのであろうが、そういった言葉の定義を捉えた上でもこの光景はやはりひどくシュールなのである。でも、本来はこういったこともするべきなのだ。食べるということが生活にある以上、調理という行為もまた生活の一部なのである。
種類は全く分からない。本当に僕は魚音痴である。刺身を食べるにしてもマグロとイカの違いが分かるレベルの人間だ。タイとハマチ、ブリとイワシなんかを家にいるときはよくクイズ的に聞かれてもいたが僕には本当に分からないのである。僕に刺身などご馳走しても何の甲斐もなかったであろう。その種類も何もわからない魚が大量に乗った籠から一つを取って、肉豆腐の手付きを見る。
鱗を落としてから首? 付近を圧し折る。この時点でただ毎日毎日二十年間、皿に出てくる魚だけをのうのうと食べていた僕には非日常のグロテスクな場面に出くわしたのと同じことであって眩暈のような感覚に陥った。
首の骨らしき部位を折り曲げて、尾まで通ずる骨の多くを抜き取ろうと引っ張り出す。次に腹を切り開いていくことが僕に生を強く感じさせた。いちいちこんなに強い感情を持っていてはおかしいのであろうか。
この手にしている一匹を同時に始めたというのに、肉豆腐はもう次の魚に手をかけていた。年期の違いがひしひしと伝わってくる。見た目からしてもさながら大衆食堂を一人で経営している狼の風貌なのだ。その隙でほぼ同じようにこなしているばぶうがいるのだからやっぱりシュールだ。
かっさばいた魚から腸を抜き取る。頭は既に取り除いているから少しは物質的なものを扱っていると感じられるのだが、元生物という肩書きが罪悪感を与える。ばぶうのボケのように魚を捌くことは罪悪感を抱くことでもなんでもないはずなのだが、人間はもっと誰もが調理をするべきなのだ。
小骨をとったら旨みを流さない程度に水にくぐらせる。そうしたら早めに水分を取るため、乾かすらしい。肉豆腐がその僕を追い越したにひき目で同じような最終段階をやって僕に教えてくれる。
少し雑でもどんどんやった方がいいという。手の温かみで肴の新鮮さが失われて傷みやすくなるというのに加えて、この莫大な魚を捌くという理由もあるらしい。
なんでも今日はこれを蒲焼にするらしい。
最初に一気に捌いて後味をつけるらしい。僕が一匹を終える間にもう十近くは出来上がっていた。
隣の食器洗いは鼻歌交じりで手を動かしている。だが、昼飯を終えた昨日舞台でネタを見た記憶のある二人がやってきて、加勢する。
僕がまだ慣れていないのもあって、話をすることが出来なかったが、ばぶうと肉豆腐は時々言葉を交わしているし、食器洗いの三人組はさっきまで僕が巻き込まれていた魚という妖怪のコントみたいなことをやっている。そして、何回かは巻き込まれた。
しばらくして、籠の魚が半分くらいになると、突如肉豆腐が飽きたと叫びだし、どこかに駆けていってしまった。何回かは落としたのだが、誰も何も言えないうちにひええといって駆けていってしまったからしょうもない。
それを見て最初にいた食器洗いがこっちに回ってくる。本当にいつ好きな時に自分の仕事を離脱してもいいようである。そこは誰が受け持つであろうという信頼で回っているらしい。
さらに、作業を続けていると、見覚えもあるし自己紹介もしあった二人がやってきた。よし、僕らも他にいくつかの言葉の下、ばぶうとその場を離脱する。
台所を離れると、洗濯物を干している三人ほどの老若男女の姿が目に入る。これもまた気が向けばやっていいのだろう。
火と木のどちらかがいいかとばぶうに聞かれ、火と言うと、ステージを挟んで対極にあるやはり水道場へ連れて行かれた。そこには先ほどの魚同様、大量の野菜が転がっている。火に対して、今日は水攻めだと言ってここに来たのだが、すぐに野菜は何者かによって洗われていたようであることに気付いた。だから野菜よりも野菜の調理が施されていたようで水攻めにはならない作業を始める。何者かが分からないというのはやはり野菜だけ洗って逃走してしまったからである。この誰がどこをやるという分担がまるで整っていない大らかさでよくも毎日全ての仕事がこなされていくものだ。
やはり午後の仕事で最も人員を割くのは毎日行われなければならない仕事らしい。洗濯に食事作りにと毎日やらなければならないことはあるものだ。ここへ来る前に住んでいたあそこでは家事はかなりの重労働であるにも拘らず主婦には休みがないから夫にも家事という仕事をやらせて大変さを分からせるだとかという聞くのも倦んでくるような口論を耳にしていた。誰も彼もが自分の成果と相手への不満による諍いに明け暮れて、生活を良くしていたいという自分なりの理想に雁字搦めとなり苦しんでいた。理想を掲げるのはいいが理想的な人生にありつくために毎日そのために生かされているならばいっそやめてしまえばよかったのだ。生きていくための活動自体を義務に感じて仕事としていた彼らとは全く違うここの島民と生活を共にしていると改めてそう思う。
だが。食事や排泄といった意識するでもなく毎日義務と考えなくても自然と行われる活動と同じように、料理や洗濯といった仕事と捉えるまでもなく根源的にやろうとする活動に島民は自然と集まってくるのだ。誰が指示するでもなく先にやっているものが飽きる前に必ず誰かしらがやってきて料理にしろ選択にしろその根源的活動を続行しているのだ。こうして見るとさっきやっている分にはあまり多くも感じられなかったが魚で見れば最初の下ごしらえで三人いたところで僕らが野菜の洗い場に行ってからはそこに五人増えて八人はいるのだし、野菜洗い場では皮を剥いたり切ったりして十人はいるのだからやはり毎日行われるべき仕事と捉えられるけれどもここでは勝手に誰もが動き出す根源的活動に島民は集まっていくのであろう。洗濯物を洗って叩いて干している集団のところにも何人も島民が集まっていた。
料理や洗濯をしていない他の島民はといえばどこかの家を使って、決められた分の布団や洋服を縫ったり、食器や椅子などを作ったりしているという。他にもその都度不足しているものや予備のない物品を作っているらしい。作る物がなくなり仕事がなくなるということはなく漁業の投網、農業の鍬や脱穀機、畜産業の牛や羊に使う紐など必要なものは限りなくあるとのことである。また、家や船など大々的な建築などはまれに島民数日がかりで一気に造られるという。
今現在、僕は野菜の皮をひたすら向いている。包丁を使って野菜の皮を剥くというなど何年ぶりであろうか。少なくとも小中学校の家庭科においての実習以来包丁に触れてもいないという実力である。そんな実力しかない僕がそのほぼ皆無に近い経験を使ってひたすら剥いているのである。経験といってもこれほどの量の野菜を剥くというのであれば人生で初めての経験といってもいいかもしれない。顔や指先といった神経組織が密集する部位の近くで刃物を使っている分僕は異常なまでの神経を費やし先程の農業においての畑耕し以上にばぶうとの差が歴然である。後から野菜を剥きにやってきた面々も例外なく圧倒的に僕よりも早くそしてまたうまくこなし、僕の剥きあげた野菜の数を軽く上回っていく。
全てが剥き終わると野菜を切る段階に入った。
当然だが野菜の皮むきをここで担当している皆で同時に終えたわけだから野菜切りに入るスタートラインは統一されているはずであって僕は端からトップに立てるはずも少しもなく時間が経てば経つほどその差は広がっていくような状況である。
差が広がるとはいえ切り始めると最初よりは慣れてきた気がする。
今日は魚捌きに野菜処理にと料理関係が多くなってしまったが、明日は他の種類の仕事もしてみたい。と言っても、まあ、衣食住の中でも衣は服ができているわけだし住もしっかりとした家が確保されているわけだから生物である以上毎日必要となってくる食から活動として始めたわけだからなかなかいい妥当な順かもしれないが。
「いやあ、いやいやあ」
全ての野菜を切り終わり、ばぶうが声をあげた。切り終わった野菜は火を起こす釜戸がある方へ運ばれる。そこが調理場となっているらしい。籠に切り分けられた野菜がたんまりと入って台所へ出発するわけだが、実際に僕が包丁で以て野菜を切ったのはおそらく全体の十分の一もいっていないだろう。いやいや。十人で切って、その十分の一の量と比べるとはなんとずうずうしい。おこがましいくらいだ。下手をすれば二十分の一、いやいや三十分の一も切っていない可能性すらあるのだ。
野菜は籠と共に目の前から消え野菜処理をしていた者たちも次々に散っていく。
両腕を高く天に捧げ筋肉をほごすばぶうが残った。一つ欠伸をするとそのままうろうろして視点が一点で止まったので僕も目をやる。
「もう疲れたねえ」
言い終わるが早いか、ばぶうは野菜を洗っていた泥が溜まるたらいの近くにあった最終洗い用のたらいにあった水を手に貯め僕へかけてきた。目的物を僕もこの目で捉えたとはいえまだばぶうの発した言葉が頭をめぐっているとことへの不意打ちであったので、顔全体を被災する。
僕は何も考えずに近くにあった水を手に取りかけ返していた。冷静に考えればまだ料理も作り終わっていない中で遊んでいいのかなど行き着くはずだが、仕事として、義務として自分の感情を殺してまで動いていなかった分、遊びの延長上のような気分である。いや、遊びという感覚でもないのかもしれない。活動の一部。それに何より――
楽しかった。
義務でもなく気を遣うでもなく遊べるというのかなんというか。
どれだけ遊んでいたかは分からない。いや、決して長い時間ではなかったはずだ……短くもないだろうが。水をかけてそれを防いで残りの水を確認して、とたわいないことをやり続けた。そのうちに椅子や机が昨日同様に広場近くの家々から運ばれ出したために僕らもそれを手伝い始める。